いまや週イチぺースで更新がある、ハンハンママのブログ。
最新作が、昨晩公開されたんだけど…
ママとハンハンの本の読み方が”そっくり”で、 ほんとに新たな発見あり!でした😅
チャンジャーハンのママブログ更新!「無字を読んで感じたこと」
今日紹介する、ママのブログは、ある有名な中国の女性作家の作品の話なのだけど…
その本を紹介する中で、ハンハンとママの「本の読み方」がそっくりなことに気づきます。
ということで 本題に行く前に そこだけ先にちょこっと解説😅
今回のポイント 母と息子の「本の読み方が同じ」
ハンハンが自身のブログで、本の話をするとき、
よく書籍の一部を写真に撮って、紹介していることが多いのだけど…
そこにすごく特徴があって、

↑こんなふうに とても印象に残った個所に下線をひいたり、
コメントを書いたりするんですよね。
※上の写真は過去投稿>>张三坚(チャンジャーハン)1/28の投稿「デイ兄弟、すべてがうまくいくでしょう!」(ファンの論争を呼んだ記事の和訳です)
で! 今日のママのブログなんだけど…

↑ ママが読んだ本の写真にも 下線やコメントがどっさり!
ハンハンとあまりにそっくりで 驚きましたwww
読書好きで知られてる ハンハン母子だけど、こういうところまでそっくりとは!(;・∀・)
そういうわけで 今日は「元祖読書好き」のママが、超おすすめの書籍の感想文が書かれています。
正直、すごい長文なので、時間がかかると思うのだけど^^;
興味がある方は 読んでみてください😅
張ママブログ「あらゆる悲しみと苦しみは、すべて「無字」の中に尽きている。―張潔『無字』を読んで感じたこと」全文和訳

万般悲苦,尽在无字中
——读张洁《无字》有感
あらゆる悲しみと苦しみは、すべて「無字」の中に尽きている。―張潔『無字』を読んで感じたこと
中国現代文壇において、
張潔は決して避けて通ることのできない特異な作家であり、
また中国文学史上で唯一、
二度にわたり「茅盾文学賞」を受賞した女性作家でもあります。
彼女は生涯にわたり筆を止めることなく、
鋭く誠実な言葉で、
愛、人間性、そして女性の運命について
執拗に問い続けました。
彼女の文章は繊細で冷静でありながら、
深い真心に満ちています。
一見すると冷たく鋭利に見える、
その筆致の内側には、
最も柔らかな悲憫(※)が隠されています。
🌟悲憫(ひびん):相手の苦しみや不幸を深く哀れみ、心を寄せるという意味
彼女は生涯をかけて、
愛、人間性、運命、そして時代の狭間で、
抜け出すことのできない女性たちの生存状況について、
繰り返し問い続けました。
彼女の創作人生を振り返ると、
その流れは極めて明確です。
若き日には世俗の束縛から抜け出し、
大胆に精神的な愛を描き、
結婚の空虚さを率直に解剖しました。
中年期には時代の激流へ筆を向け、
社会改革の激動を冷静に記録し、
人情の冷たさと現実の利害を見抜きました。
そして晩年には、半生の悲歓を沈殿させ、
一生の中で見てきた苦難、愛した人々、
受けた傷のすべてを筆の中へと揉み込み、
女性の一生における、
苦悩、葛藤、荒涼を書き尽くしました。
彼女のどの作品にも、
彼女自身にしかない鮮烈な刻印があります。
迎合せず、妥協せず、世渡りに流されず、
常に文人特有の純粋さと頑なさを保ち続けていました。
『愛,是不能忘記的(愛は忘れることができない)』では、
結婚の本質と魂の愛について大胆に問いかけ、
思想的に保守的だった時代に大きな波紋を呼び、
世俗的な結婚の偽りの外殻を引き裂きました。
『方舟』では、女性が結婚、職場、
世間の視線の中で抱える「窮屈さと無力感」を率直にさらけ出し、
誰にも分かち合えない「女性の迷い」を赤裸々に描きました。
『沉重的翅膀(重い翼)』では、
個人的感情の視点を越え、
時代改革の痛みと変化を描写し、
その重厚で確かな筆力によって「茅盾文学賞」を受賞しました。
散文集『世界上最疼我的那个人去了(この世で最も私を愛してくれた人が逝った)』は、
一語一語に深い情が込められており、
素朴で淡々とした文章の中に、
最愛の人との別れによって生まれた「癒えることのない思慕」と、
「生涯消えることのない後悔」が満ちています。
そして、12年もの歳月を費やし、
何度も推敲と改稿を重ね、
生涯の心血を注いで完成させた三巻長編『無字』こそ、
間違いなく彼女の文学的到達点の頂であり、
この世に残した最も重く
最も率直で、最も孤独な作品です。
80万字を超えるこの大作には、
軽快で流れるような物語展開も、
皆が幸せになる結末も、人間性を美化する描写もありません。
ただ静かに、冷徹に、容赦なく、
百年を超えて続く四世代の女性たちの浮沈、
忍耐、そして苦しみを書き尽くしています。
張潔は作中で老子の言葉を引用しています。
「大音希声、大象無形」。
(あまりにも深い苦しみは、本来言葉にできない
あまりにも骨身に刺さる悲しみは、本来文字にできない という意味)
あまりにも深い苦しみは、本来言葉にできないものです。
あまりにも骨身に刺さる悲しみは、
本来文字にすることができないものです。
それこそが、『無字』という二文字に込められた、
最も重く、最も真実の意味なのでしょう。
私は『無字』を繰り返し三度読みましたが、
そのたびに感じ方は異なっていました。
若かった頃は、その抑圧を理解できませんでした。
しかし今読み返すと、
一文字一文字がすべて苦さに満ちています。
本を閉じるたび、胸に残るのは重く沈んだ鬱屈と
長く尾を引くような虚しさだけです。
そして次第に理解するのです
―最も深い痛みとは、もともと声を持たないものなのだと。
あらゆる悲しみと苦しみは、
幾度も浮き沈みを繰り返した末、結局は「無字」へと帰っていくのだと。

『無字』は、百年にわたる時代の移り変わりを背景に、
(中華)民国時代、抗日戦争、新中国成立、特殊な時代、
そして改革開放に至るまでの長い歳月を貫きながら、
墨荷、葉蓮子、呉為、禅月という四世代の女性たちの、
まったく異なりながらも
どこか重なり合う運命の軌跡を丁寧に描いています。
物語全体は女性の血のつながりを核心の軸とし、
国家と時代の動乱、時代の苦難、人の世の浮き沈み、
そして個人の悲喜こもごもを静かに織り交ぜています。
文章は素朴で重厚、語り口は抑制され
静かに耐え忍ぶようで、
あえて感情を煽ることはありません。
それでも読んでいると、
胸が重く塞がれるような感覚になります。
張潔は、意図的に劇的な衝突を作り出したり、
過剰で波乱万丈な展開を仕立てたりはしていません。
ただ平淡でありながら、
冷ややかな筆致によって、それぞれの世代の無力さ、
卑小さ、葛藤を少しずつ剥き出しにしていきます。
そして、女性たちが時代、家庭、結婚、愛情によって
閉じ込められた人生を、
読者の前にありのまま広げて見せています。
四世代の女性たちは血で結ばれ、
運命が複雑に絡み合っています。
異なる時代を生き、異なる性格を持ちながらも、
長いあいだ似たような苦しみの枷に囚われ続け、
逃れることも、振り払うことも、避けることもできません。
祖母・墨荷は、封建的礼教の束縛に深く囚われ、
一生を結婚に縛られ、世俗に抑え込まれて生きました。
生まれながらに男性の付属物として扱われ、
ただ単調な労働と出産のための存在として生涯を終えます。
彼女は従順で忍耐強く、抵抗することも知らず、
夫からわずかな愛情も得られず、
家族から少しの偏愛も受けることなく、
尽きることのない冷淡さ、労苦、無視の中で静かに枯れていきます。
それは旧時代に生きた無数の底辺女性たちの
麻痺したような「悲惨な運命」の、あまりにも現実的な縮図でした。
母・葉蓮子は乱世に生まれ、
貧困と放浪の中を生き、一生を流転のうちに過ごしました。
戦乱、飢え、裏切り、孤独を味わい尽くし、
人生から優しく扱われたことも、
人から揺るぎなく愛されたこともありませんでした。
彼女は気が弱く臆病で、
敏感で卑屈な性格をしており、
生涯を生き延びるために奔走し続け、
寒さと苦しみに耐え続けました。
苦難は骨の髄に刻み込まれ、
悲しみは血肉に溶け込み、
その人生は終始、粗末で卑小なものでした。
主人公・呉為は、この作品全体の魂であり、
最も張潔自身に近い人物でもあります。
彼女は感受性が鋭く、才能に恵まれ、
反骨的で気高く、冷静で本質を見抜く一方で、
極端なまでに偏執的でもあります。
彼女は生涯を通して、
魂が深く通じ合う「純粋な愛」を追い求め続けました。
彼女は誠実さを求め、特別な愛を求め、
精神的共鳴を求めます。
しかし皮肉にも、何度も誤った相手と巡り合い、
愛情の中で傷つき、沈み込み、消耗していきます。
崩壊した家庭環境、冷え切った肉親関係、
世俗の偏見と中傷、複雑な男女関係が、
絶えず彼女を引き裂き、苦しめ、消耗させ、
誇り高く聡明だった彼女は
次第に精神的に追い詰められ、ゆっくりと崩れていきます。
ただ最後の世代である禅月だけが、
愛情という枷と生まれ持った苦難から抜け出しました。
彼女は冷静で自立しており、感情に溺れず、
他人に依存せず、人間の冷たさを見抜きながらも
なお本心を失いません。
彼女はこの作品全体の中で唯一の光であり、
同時に張潔がこの世の女性たちへ残した、最も美しい希望でもあります。
この作品には絶対的な善悪はなく、
完璧な聖人も存在しません。
人間の利己心、弱さ、偽善、偏執、冷淡さが、
率直かつ生々しく描かれています。
そして、人間社会の最も素朴で、最も現実的で、
最もどうしようもない姿が、余すところなく浮かび上がっています。
私の考えでは、『無字』の文学的価値、思想の深さ、
人間描写の厚みは、
中国の女性文学の中でもほとんど比肩するものがなく、
今なお再現困難な頂点的作品です。
この作品は、従来の家族小説に見られる
「男性を主人公とし、国家や時代の大事件を中心に据える」という
固定的枠組みから抜け出し、
純粋な女性の視点によって百年の歳月を振り返っています。
そして、女性たちに代々受け継がれてきた苦難、
忍耐、崩壊をありのまま記録し、
厳粛な文学の長い流れの中で、
欠け続けていた“女性叙事詩”の空白を埋めたのです。
多くの作家が女性の苦難を書きますが、
その多くは表面的な描写に留まっています。
結婚の不幸を書き、生活の貧しさを書き、
外部からの抑圧を書く
――しかし浅く触れるだけで終わってしまうことが多いのです。
ただ張潔だけは、あらゆる優しい偽装を引き裂き、
人間性の奥底にある暗さ、利己心、冷酷さと真正面から向き合い、
女性の精神崩壊の核心を鋭く突いています。
彼女は苦難を美化せず、
意図的に感情を煽ることもなく、
人間の陰暗な部分を許そうともしません。
筆致は淡々として抑制されており、
文章は冷ややかで鋭利です。
一文ごとに胸を刺し、
一節ごとに重く深いものがあります。
封建思想の残滓、時代の激動、人間の本能的弱さ、
男女関係の不均衡
――それらが幾重にも重なり絡み合い、
時代の激流の中にいる女性たちを、世代を超えて縛り続けています。
今日に至るまで、
東洋女性の骨の奥に染みついた抑圧、苦悩、悲哀を、
これほど透徹し、率直かつ完全な形で描き切った作品は
依然として少ないと思います。
それこそが、私が長年この作品を繰り返し読み返し、
変わらず愛し続けている根本的な理由です。
この作品は単なる小説ではありません。
むしろ、一部の女性精神受難史のようなものです。
冷静で、客観的で、断固としており、
一切の温かなフィルターをかけることなく、
女性たちの最も語り難く、
最も誰にも共感されにくい秘めた苦しみを、
永遠に文字の中へ留めています。
この本の中には、完璧な人間は存在せず、
ましてや完璧な愛などありません。
作品の中で描かれる多くの男性たちは、
冷淡で利己的であり、偽善的で臆病で、薄情です。
彼らは無意識のうちに女性の優しさ、誠実さ、
真心を消耗し、女性の純粋な想いを踏みにじり、
最後には壊れ果てた残骸だけを残していきます。
作中で幾世代もの女性たちが歩んできた
苦難に満ちた道を振り返れば、
この世の男性たちこそが、
しばしば女性たちの半生の苦悩と、
一生にわたる苦難を生み出す主な原因であることに気づかされます。
張潔は、結婚にまつわる温かな幻想を平然と引き裂き、
人々が盲目的に崇める“愛情神話”を容赦なく突き崩しています。
彼女は冷静で透徹した文章によって、
すべての読者へ警鐘を鳴らしています。
愛は決して人生の救済ではなく、
他人へ過度に依存し、実体のない恋愛幻想へ執着すれば、
最後には自分自身を見失い、深淵へ堕ちていくのだと。
女性にとって最大の困難とは、外部からの抑圧、
世俗の偏見、時代の束縛だけではありません。
むしろ、精神的依存、感情への執着、
そして心の奥底にある自己沈没こそが、より大きな問題なのです。
女性が他人に希望を託し、感情を恋愛へ縛りつけた瞬間、
受け身となり、傷つき、迷い、自分自身を失う運命から逃れられなくなります。
これは張潔が半生の血と涙によって悟った道理であり、
また彼女が文章を通して、すべての女性たちへ繰り返し伝えようとした真実なのです。
世界文学という長い流れの中で他作品と並べて見ても、
『無字』はなお代え難い独自の重みを持っています。
もしロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』が、
男性が世俗の束縛を突き破り、
人間世界の苦難に抗い、自らの信念を守り抜く
「精神の讃歌」だとするならば、
『無字』はまさに東洋女性だけに属する、
忍耐と頑なさ、悲哀と決然さを帯びた魂の悲歌なのです。
この作品は意図的に悲しみを煽ることもなく、
無理に涙を誘おうともしません。
ただ静かに、淡々と苦難を語っています。
その文章は冷ややかで、現実的で、重厚でありながら、
どこか世の中を見切ったような決然さを帯びています。
多くの女性文学に見られるような、
柔らかく感傷的で、意図的に情緒へ訴えかける作風とは異なり、
この作品は人間性の欠陥を正面から暴き出し、
女性たちの痛み、葛藤、孤独、崩壊を率直に描いています。
美化せず、隠さず、妥協もしません。
たとえ時代が移り変わったとしても、
作中で描かれる男女の隔たり、感情の傷、精神的苦境は、
今なお現代を映し出しています。
そしてこの作品を本当に理解した人なら誰しも、
心に深い共鳴と静かな感慨を抱かずにはいられないのです。
では、「無字」とは何なのでしょうか。
それは、言葉にできない苦しみであり、
声にならない委屈であり、沈黙したまま耐え続けることです。
そして無数の女性たちが胸の奥に積み重ね、
どこにも訴えられず、
誰にも共感されないまま抱え込んできた「悲哀そのもの」です。
率直に語ることのできない傷、
人に理解され受け入れてもらえない孤独、
逃れることのできない宿命、
胸の奥に残り続ける未練
――それらは最後にはすべて沈黙へ帰り、「無字」へと変わっていきます。
張潔は筆のすべてを注ぎ込み、
12年もの歳月を費やして、
一族四世代の盛衰を書き上げました。
しかしその本質は、
近代を生きた苦難の女性たちの伝記を書くことでもあったのです。
彼女は、生まれ育った家庭に深く根を下ろした傷、
男女関係に生まれつき存在する欠落、
時代環境がもたらす、不可逆な厳しい束縛を剥き出しにし、
女性たちの知られざる葛藤、忍耐、崩壊を隠すことなく描きました。
それによって読者は、過去の女性たちが
どれほど卑小で無力な環境に置かれていたのかをはっきりと目にし、
同時に女性の目覚めへの道がどれほど険しく、
困難で、長いものであるかをも痛感するのです。
一見平淡に見える文章の下には、
無数の女性たちの、声なき涙が隠されています。
そして冷静に見える語りの中には、
この百年に積み重なった
女性たちの重い悲哀が押し込められているのです。
『無字』を読み込むうちに、
私は少しずつ、「自持」「覚醒」「自立」の本当の意味を理解するようになりました。
作中の前三世代の女性たちの悲劇は、
その多くが“過度な依存”と“自己喪失”に根ざしています。
墨荷は結婚に依存し、葉蓮子は生存に依存し、
呉為は愛情に依存しました。
彼女たちは異なる時代を生きながらも、
共通した弱点を抱えていました。
つまり、自分の希望を外のものや他人へ託し、
自分自身を大切にし、
自分自身を成就させることができなかったのです。
それが封建礼教による外的束縛であれ、
愛情への執着による精神的沈没であれ、
独立した精神の核を失った瞬間、
人は結局運命に飲み込まれ、苦難の中でもがき続けることになります。
だからこそ、禅月の冷静さ、理知、透徹さこそが、
張潔がすべての女性たちへ残した最良の答えなのです。
本当の救済とは、決して誰かに頼ることでも、
愛情へ依存することでも、世俗へ妥協することでもありません。
それは、自分自身を成就させること、
自分自身を強く保つこと、自分自身を救うことなのです。
執着という枷から抜け出し、清醒な本心を保ち、
独立した人格を持ってこそ、
人は初めて自分の人生を掌握し、
世代を超えて繰り返される苦難の輪廻から抜け出せるのです。
私は昔から、重厚で沈潜した古典を心から愛しており、
『無字』の全巻セットもこれまで5度購入してきました。
幾度もの移り変わりの中で、3セットはすでに欠けてしまい、
1セットは親友へ贈り、
今はただ1セットだけを手元に残して大切にしています。
私はもともと、この本の持つ気骨や文章の力を人と分かち合うことを好み、
いつもまず第1巻を誰かに渡して読んでもらっていました。
そして密かに願っていたのです
――もしその人が文字の奥にある深い意味を読み取り、
心から共鳴してくれたなら、きっと自ら残りの巻を求めに来るだろう、と。

私もこれまで何度となく、
心を込めて息子にこの名作を薦めてきました。
ですが彼は、3巻にも及ぶ長さをただ冗長(長すぎる)だと感じ、
作中に描かれる世情や人間模様も、
現代の暮らしから遠く離れたものに思えたようで、
結局落ち着いて読み進めることができませんでした。
かつては熱心に人へ薦め、
第1巻を贈ることも多くありましたが、
その多くは石を海へ投げ込んだように何の反応もなく、
その後の続きを尋ねられることもありませんでした。
どうしようもなくなり、
私は何度も新たに全巻を買い直しました。
そんなことを繰り返すうちに、
心の中のあの熱意も少しずつ薄れていき、
以来、この本を軽々しく他人へ薦めることはなくなりました。
ただ自分ひとり、静かに読み返し、
自分の心だけをそっと寄せるようになったのです。
若い頃には、こんな心残りもありました。
ある何気ない仕事の折、
私は誠意を込めて『無字』の豪華装丁版全巻セットを準備し、
相手へ贈ったことがあります。
私にとってこの本は心の宝物であり、
何度も繰り返し読み、手放せないほど愛していたため、
自分が大切にしているものなら、
相手も同じように大切にしてくれるはずだと、
幼いほど純粋に信じていました。
けれど結局、それは私の一方的な思い込みに過ぎませんでした。
私の精一杯の真心も、
相手にとってはただのありふれた品物でしかなく、
その仕事もあっけなく終わってしまいました。
かえって、自分の中にあった本への情熱や理想だけが、
あまりに青く熱すぎたように思えたのです。
さまざまな経験を経て、ようやく私は腑に落ちました。
良い本は手に入っても、
心を通わせられる知音(=自分を理解してくれる人)
を見つけることは難しいのだと。
この世にある大切な想いや、
精神を豊かにしてくれるものは、
決して誰もが同じ波長で共鳴できるわけではありません。
心の奥深くにある偏愛や執着は、
結局のところ、多くは自分ひとりで抱きしめておくしかないのでしょう。
私の『無字』への偏愛は、執着とも言えるほど強く、
熱烈なものです。
それはすでに普通の文学作品という範囲を超え、
心の奥へ刻み込まれた、手放し難い精神的支えになっています。
中でも最も悔やまれるのは、
最初に手に入れた三巻揃いの『無字』です。
第一巻と第二巻はすべて人に持っていかれ、
今、手元に残っているのは第三巻だけになってしまいました。
普段、時間のある時にページをめくるたび、
私は本の中へ読んだ跡を残し、
心惹かれた文章には丁寧に線を引き、
ペンを取って感想や書き込みをびっしりと添えています。
だからこそ、その欠けてしまった本を見るたびに、
胸の奥には言葉にできない惜しさが込み上げてくるのです。

息子が芸能界へ足を踏み入れたばかりの頃、
かつて映像化に関する話を持ちかけられたことがありました。
その時の私は、ほとんど何も考えず、
胸いっぱいの熱意だけで
『無字』を映像作品に改編したいと提案してしまったのです。
今振り返れば、当時の私はまったく冷静ではありませんでした。
作中の人物や物語は、そもそも息子に合う役柄でもありません。
それでも私は、心の中の激しい愛着に突き動かされ、
この作品が持つ不朽の文学的輝きしか見えていなかったのです。
作品として映像化に適しているかどうかを、
理性的に考えることなどできませんでした。
けれど何より、この作品は人物関係があまりにも壮大で、
時代背景の跨度も長く、
人間性の描写は深く重く、感情の基調もひどく悲痛です。
原作が持つ神髄を、映像という形で再現することなど
到底不可能でした。
無理に映像化したところで、
表面的なものにしかならず、名作を損なうだけだったでしょう。
あの直情的で無鉄砲だった提案こそ、
私がどれほどこの作品を深く愛していたか、
その最も純粋で真っ直ぐな証だったのだと思います。
私にとって張潔は、単なる作家ではありません。
ずっと心の奥にあり続ける、
手放すことのできない精神的支えのような存在です。
私は彼女が世に送り出した作品をすべて読みました。
初期の清らかで憂いを帯びた短編から、
現実を直視した中編、重厚で深みのある長編、
そして素朴で心を打つ散文や随筆まで
――彼女の筆の中にある優しさ、頑なさ、痛み、覚醒、
孤高さ、誠実さ、そのすべてに目を通してきました。
そして私は、彼女の人生の底に流れていたもの
――半生にわたる孤独な勇気、半生にわたる迷い、
どうにもならない無力感――そうした人生の底色まで読み取った気がするのです。
世間の多くは、彼女の文章の鋭さや孤高さ、
冷ややかな決然さだけを見ています。
また、文壇での輝かしい名声や溢れる才能を見るのでしょう。
けれど私は、一字一句の間から、
彼女の内側に隠しきれない柔らかさ、繊細さ、孤独を読み取っていました。
そしてまた、彼女が一生を通して、
醒めたまま沈み込み、追い求めながらも満たされず、
その矛盾と葛藤の中でもがき続けたことも感じ取っていました。
私はずっと、彼女について何かを書きたいと思っていました。
この稀有な才女へ、言葉で敬意を捧げたいと。
けれど、いざ筆を取ろうとすると何度もためらい、
長い沈黙に落ちてしまうのです。
自分の拙い文章で、あの透徹し孤高で、
清らかな魂を汚してしまうのではないかと怖かったからです。
私は彼女の人生へ近づくこともできず、
彼女の日常を知ることもできません。
ただ薄い本のページ越しに、
一字一句を通して、ゆっくりと
彼女の冷ややかで透き通った魂へ触れていくだけです。
静かな文章の中で、遠くから彼女を見つめ、
言葉を交わさぬまま、
そっと理解し合っているような気持ちになるのです。
そして、長年にわたり繰り返し読み、
大切にしまい続けてきたからこそ、
私はますます張潔を敬愛し、
同時にますます胸を痛めるようになりました。
今でもはっきり覚えています。
彼女のあの、気骨がにじみ出るような写真を。
顔を少し上げ、静かに目を伏せ、
耳元で切り揃えられた黒髪。
眉目には冷ややかな静けさが漂い、
その全身には誇り高い気骨と、揺るがぬ自持が宿っていました。
その清雅で孤高な佇まいに、
心からの敬慕を抱かずにはいられなかったのです。

彼女は並外れた才情を持ち、
12年もの心血を注ぎ込んで、
この陰鬱で重厚な女性叙事詩を完成させました。
この作品は中国文壇において
極めて重要な地位を占めるだけでなく、
海外でも高く評価され、
十数種類もの言語に翻訳され広く伝えられています。
また彼女は、巴金に続き二人目となる、
アメリカ芸術文学アカデミー名誉院士に選ばれた中国人作家でもあります。
彼女はその筆によって、
東洋女性たちが胸の奥深くに隠してきた苦悩と悲歓を書き出し、
世の人々に、女性たちの内面にある知られざる精神世界を垣間見せました。
彼女は磊落(=心が広く堂々としている)で
激しい気性を持ち、冷静で本質を見抜く人でした。
そして生涯を通して、
魂を寄せ合える真実の愛情を執拗に追い求め続けました。
彼女の作品には、人情の冷たさや、
女性の独立した気骨が描き尽くされています。
けれど、いざ自身の愛の人生となると、
結局は“情”という文字の束縛から逃れることができませんでした。
驚くべき才能と高い誇りを持ちながらも、
心の中で求め続けた純粋な愛のために、
彼女は自ら身を低くし、尖った部分を抑え、
一つ一つの執着に満ちた出会いの中で、
静かに譲歩し、ひそかに耐え続けました。
そして深い愛情の中で、どこか卑屈なほどに、
自らの半生にわたる愛の道を歩み終えたのです。
たとえ愛情において何度も失意を味わい、
人の情の温かさも冷たさも尽く経験したとしても、
彼女は決して世間へ迎合しようとはしませんでした。
彼女は最後まで、純粋で真実の感情への憧れを捨てませんでした。
しかし運命は、最後まで彼女に優しくはありませんでした。
生涯を尽くして、穏やかで深い愛情を求め続けながらも、
ついに満ち足りた帰着点を得ることはなく、
彼女の誠実な想いは、何度も行き場を失いました。
気高く孤高な魂は、
愛情による内耗に深く囚われ、
半生を忍耐と孤独の中で過ごしたのです。
世の本質を見抜き、
鋭く透徹した文章を書くこの文壇の大家も、
結局は“情”という一文字に囚われたまま、
多くの愛の悔いを胸に抱え、静かに人生の幕を閉じました。
2022年1月21日、85歳となった張潔は、
アメリカで静かに息を引き取りました。
その訃報が中国国内へ伝わったのは半月後のことでした。
一時的に話題にはなったものの、
それも束の間、すぐに静寂へ埋もれていきました。
これほど偉大な文学者が突然この世を去ったことは、
私に深い痛みと虚しさを残し、今なお簡単には受け入れ難い出来事です。
それにもかかわらず、
世論は大きく揺れることもなく、
彼女を追悼し偲ぶ声も決して多くはありませんでした。
このあまりにも静かで孤独な最期は、
本当にやるせなく、惜しまれてなりません。
そしてそれは、
中国文壇における一つの大きな心残りでもあるのです。
私の中で、張潔は決して
歳月の中へ埋もれてよい存在ではありません。
彼女の文章には凛とした気骨があり、
その思想は深く重厚です。
一字一句が、人情や世の中の姿、
時代のさまざまな相を鋭く解剖しています。
その文学的到達点と思想の高さは、
世界的文学大家たちと並び立つに十分値するものです。
人々は外国の苦難文学を熱狂的に称賛し、
海外作家の透徹した思想や深さを褒め称えます。
けれどその一方で、私たち自身の国にも、
真実を語り、冷静で悲憫に満ち、迎合せず、
誇示もしない、
こんなにも優れた作家が存在していたことを見落としがちです。
彼女は生涯を通して低調で淡泊に生き、
話題作りもせず、
目立とうともせず、俗世へ媚びることもありませんでした。
喧騒や虚飾から距離を置き、
ただ筆だけを頼りに、時代の変遷、
人間の多様な姿、女性たちの運命を誠実に書き記し続けました。
静かに書き、静かに積み重ねながら、
自らの一生の悲歓すべてを、その文字の中へと沈めていったのです。
歳月は静かに流れ去っていきますが、
文字には確かな痕跡が残ります。
たとえ時が流れ、時代が移り変わったとしても、
今日に至るまで『無字』はなお、
人の心を真っ直ぐ撃ち抜き、魂を揺さぶる圧倒的な力を持ち続けています。
この作品は、意図的に人の心を癒そうとはせず、
無理に読者を温めようともしません。
ただ、人の世に存在する苦難、不完全さ、
そして現実を、そのまま描いているだけなのです。
誰もが幸福な結末や優しい物語を好み、
軽やかで癒しに満ちた作品が求められる今の時代だからこそ、
この本はいつも私へ問いかけてきます。
人間性にはもともと欠けた部分があり、
苦難こそが人生の常であり、
この世のことは本来そう簡単に円満にはならないのだと。
だからこそ、自分の心を見失わず、
独立した人格を守り、自制と強さと透徹さを持ち続けてこそ、
人は世の荒波に耐え、人生の暗い谷を越えていけるのだと思います。
私はこれまで数え切れないほどの本を読んできましたが、
唯一ここまで深く執着し、
手放せないほど愛しているのが『無字』です。
また、数多くの作家を見てきましたが、
私が特別に胸を痛め、心から敬服しているのは張潔ただ一人です。
私は彼女の清醒さと孤高さを敬い、
そして彼女の生涯に残された数々の悔いを思うと、
胸が締めつけられます。
彼女は清醒でありながら偏執的で、
強くありながら脆く、孤高でありながら優しく、純粋でありながら繊細でした。
だからこそ、人は心から彼女を敬い、
同時に深い哀惜を抱かずにはいられないのでしょう。
どうか、もっと多くの人が足を止め、
静かな心で『無字』を読み解いてくれますように。
白い紙と黒い文字の間に隠された、
百年にわたる悲哀、女性たちの苦しみ、
人間性への深い思索を、読み取ってくれますように。
そして、過小評価され、
長く顧みられなかったこの偉大な文学者が、
永遠に文字の中で記憶され、人々から静かに優しく遇されますように。
また、すべての女性たちが、
この本の中にある悲しみと透徹さを見つめ取り、
愛に囚われず、世俗に卑屈にならず、
執着に迷わされず、人の心に振り回されることなく、
自分自身の光を保ち、強く勇敢に生き、
誰かに救われるのではなく、
自らの人生そのものを、自分だけの救済へ変えていけますように。
そしてもう、自分の胸いっぱいの想いや、
数え切れない苦しみを、
沈黙したまま「無字」の中へ閉じ込めなくても済みますように。
ママの熱意が 最初から最後まで ほんとにすごかった…
ちなみに この本の日本語版が出てるのかな?と探してみたんだけど 見つからなかった(^-^;
※中国語版はamazonで売ってたんだけど、すごい長編小説みたい( ̄∇ ̄;)ww
これは ハンハンも「ちょっと長すぎる」というのもうなづける…(ママには申し訳ないですが😅)
ではでは今日はこのへんで。 ここまでご覧くださりありがとうございましたww
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