ハンハンがいま、連載的に公開してる「映像版グッドナイトストーリー」。
「幸福のデザイン」の第4弾が、昨晩公開されました(〃▽〃)ポッ
※8/28に公開された ママブログの和訳も続けてご紹介します(^-^;
チャンジャーハンのグッドナイトストーリーVTR「幸福のデザイン」④
史鉄生の『幸運のデザイン』を朗読しているハンハン。
過去3回分は、こちらで紹介しています。
①7/26投稿 チャンジャーハン、朗読VTR「幸福のデザイン①」公開(映像版「グッドナイトストーリー」)
②8/2 チャンジャーハン公式Youtube発「グッドナイトストーリー幸福のデザイン②」動画&全文和訳
③8/23投稿 チャンジャーハン、朗読VTRの第3弾公開!「幸福のデザイン③」(全文和訳)
今回は③からの続き! ハンハンの映像と共に 和訳を紹介します(〃▽〃)ポッ
张哲瀚|晚睡故事「好运设计」4(チャンジャーハン|グッドナイトストーリー「幸福のデザイン④)
『幸運の設計』④作者:史鉄生(シー・ティエション)

どのような欠落なのでしょうか?
あなたには、
どのような欠落を設けるのがふさわしいと思いますか?
頭が悪い?
いやいや、それはいけません。
頭が悪いことは、
一生涯の不幸となる可能性が高く、
努力によって根本から克服することはほとんどできません。
この点は、断固として除外すべきです。
容姿が醜いというのは?
いや、それもいけません。
醜いことも取り返しのつかない状況であり、
下手をすれば子孫にまで災いを及ぼしかねません。
だめです。これは絶対にだめです。
無知というのは、どうでしょうか?
いや、それは頭が悪いことよりも、さらによくありません。
完全な無知(あるいは、かなり深刻な無知)は、
白痴とほとんど変わりません。
一方、相対的な無知は欠落の一つとはいえません。
私たちは誰もがそうなのですから。
それでも、少しは譲歩しなければならないでしょう。
たとえば、少し口下手で、
少し融通が利かないというのはどうでしょう?
活力に少し欠け、若々しい意気に少し欠け、
個性に少し欠け、好奇心に少し欠ける
――たとえば、そのようなものならよいでしょうか?
ああ、あなたはまだ「それならよいでしょうか」
と尋ねているのですね。
これ以上ひどいことはありません!
やがて、その人には勇気も、思いやりも、
感受性も欠けていることに気づくでしょう。
何が起きても決して心を動かされず、
美しいものを見ても感嘆せず、
醜悪なものを見ても憎しみを抱きません。
感動することも、怒ることも知らず、
あまり泣くこともなければ、笑うこともほとんどありません。
これでよいはずがあるでしょうか?
その人は、まだ生きているといえるのでしょうか?
その人は、愛することができるのでしょうか?
愛のために苦しみ、幸せを感じることができるのでしょうか?
だめです。
では、少し狡猾というのはどうでしょうか?
狡猾――ああ、実のところ、
人は誰でも多かれ少なかれ、多少は狡猾なところを持っています。
それは長所ではありませんが、
必ずしも欠点に数える必要もありません。
この世界で生き延びようとする生き物にとって、
多少の狡猾さは避けられないものでもあります。
ただし、一つはっきりさせておかなければなりません。
最初から他人を陥れようと企み、
他人を害することもいとわないような狡猾さは、いけません。
そのような人の多くは、
よい結末を迎えないのではないかと思います。
そのような人もまた、愛を理解することはないでしょう。
(性については理解しているかもしれませんが、
愛を理解してはいません。
性的な快感は簡単に手に入れられるかもしれませんが、
愛を伴う性の陶酔を味わうことは難しいでしょう。
なぜなら、その人が頼りにしているのは、
美を創り出すことではなく、ただ美から利益を得ることだからです)
そのうえ、このような人には一般的に、
本当の才能も魅力もありません。
そうでなければ、狡猾さを選ぶ必要などないのです。
だめです。どの角度から考えても、狡猾さはいけません。
それなら、少し病気があるというのは?
ああ、神様、どうかそれだけはやめてください。
どうか勘弁してください。
何としても力を貸してください。
来世では、絶対にもう病気になってはいけません。絶対にだめです。
私たちが苦労して、
この「幸運の設計」をしているのはなぜか、あなたはご存じでしょう?
ええ、あなたならご存じのはずです。
それなら、もう病気の話はしないでください。
一言たりとも、口にしないでください。
ほんの少しの病気なら?
軽い病気もいけません。
発熱や風邪、下痢ですか?
いやいや、それでは役に立ちません。
少しくらいの病気では
誰かにとっての脅威にもなりませんし、
私たちが期待しているように、
最終的にあなたの幸福を倍増させることもできません。
あったところで、何の意味もないのです。
しかし、これは決して、
病気にならないか、
病気になるなら大病にかかるか、
そのどちらかだという意味ではありません。
違います! 決して、そういう意味ではありません。
どうしても理解しておかなければならないことがあります。
どのような有期刑(注意してください.「有期」です)と、
ある一つの大病との間で、
もしどうしてもどちらかを選ばなければならないのなら、前者を選ぶべきです。前者です!
そうです、そうです。これには議論の余地はありません。
もしあなたが大病にかかったとしたら
――慌てず、最後まで聞いてください。
のちの幸福の価値を高めるほどの大病にかかり、
その病気があとで治った、
それも完全に治ったとしたら、どうでしょう?
うーん、それなら考えてみる価値はあります。
あなたは何年ものあいだ病床に伏し、
健康な人を見るたびに羨ましく思います。
自分もその人たちのうちの誰かでさえあれば、
それだけで満足だと思うのです。
そして、その病気が治り、
すっかり元どおりになったとしたら、どうでしょう?
続きを話してください。
あなたは、もともとすでに絶望していました。
たとえ死なずにすんでも、
これからの日々はこのうえなく暗いものになる。
それなら、いっそ死んだほうが楽だと思っていました。
まさにそのとき、病状が突然、好転したのです。
続きを話してください。
絶望に満ちた昼と夜、
あなたは祈り、願いをかけ、固く誓いました。
この病気さえ治るのなら、
その後どんな苦しみに遭っても苦しいとは思わない。
どんな困難に遭っても困難だとは思わない。
一文無しになろうが、
無一物になろうが、そんなことが何だというのか?
あなたは人生を愛し、
この世界を愛し、この世界にいるすべての人を愛するでしょう。
そのとき――まさにそのとき、奇跡が起きました。
一つの奇跡によって、あなたは完全に健康を取り戻したのです。
再び精力にあふれ、
飛ぶような足取りで歩けるようになりました。
これならどうでしょう?
最高です。もっと続きを話してください。
あなたは、もともと
「もう一度歩けさえすれば、それでいい」と思っていました。
ところが今では、再び9.91秒の速さで飛ぶように走れます。
「もう一度跳べたらいいのに」と思っていました。
ところが今では、再び2.45メートルを跳び越えることができます。
「もう一度、自立して生活できさえすれば、それで十分だ」
と思っていました。
ところが今では、あなたが力を発揮できる場所は、
再び地球と同じくらい広くなりました。
「もう一度、人間らしい姿に戻り、
誰かを怖がらせて逃げさせずにすむだけでも、ありがたい」
と思っていました。
ところが今では、あなたを好きになってくれるすてきな女性たちが、
数え切れないほど、辺りを覆い尽くす勢いで現れました。
続きを話してください。曖昧にせず、話し続けてください。
もちろん、あなたが一途な思いを変えないことは、
間違いではありません。
大きな災難をくぐり抜けたあとも、
人は鋭い気概を失うべきではなく、情熱を失うべきでもありません。
あなたは落ち着きを得ましたが、
今も燃え続けています。
穏やかになりましたが、
その思いは、いっそう雄大に広がっています。
あなたは今も、
あの女性を愛しています。
山より高く、海より深く、
揺るぎなく愛しているのです。
このとき、あなたの未来の義父と義母も、
当然もう二人の結婚に反対しないでしょう。
反対しないばかりか、
あなたを自分たちの誇り、栄誉、老後の幸福、
そして死後の慰めと考えるでしょう。
この瞬間、あなたはどれほど幸福なことでしょう。
愛する人と一緒に、青空の下、
広々とした野を駆け、青い波と白いしぶきの中を泳ぐ
――どれほど幸福なことでしょう!
さあ、先ほどあなたのために設計した、
あの幸運のすべてをここへ持ってきましょう。
今ならもう大丈夫です。すべて、ここへ持ってきましょう。
災難を乗り越え、失ったものを取り戻した今、
あなたは初めて、本当に幸福な人になったのです。
苦しみが尽きて、喜びが訪れる。
そうです。これこそが、最も重要な幸運なのです。
苦しみが尽きて、喜びが訪れる。
そうです。
苦しみの果てに喜びが訪れさえすれば、
実のところ、どんなことでもかまいません。
病気になったり、失恋したり、物乞いをしたり、
殴られたり(ただし、体を壊すほど殴られてはいけません)、
家財を没収されたり、
無実の罪で牢獄に入れられたりしても、
最後に苦しみが尽きて喜びが訪れるのなら、
実のところ、どれも悪いことではありません。
怖いのは、苦しみがいつまでも尽きず、喜びも訪れないことです。
実のところ、それほど大きな喜びは必要ありません。
苦しみが尽きるだけで十分なのです。
実のところ、喜びなどなくてもよいのです。
苦しみが尽きれば、それだけですでに、
とても喜ばしいことなのです。
そのために祈りましょう。
これを基本原則の一つとして、
何があっても私たちの「幸運の設計」に書き入れましょう。
何があっても、最も重要な項目として掲げましょう。
問題は、苦しみが尽きて喜びが訪れたあと、
どうなるのかということです。
苦しみが尽きて喜びが訪れたあと、どうすればよいのでしょう?
ああ、あの影が、また頭をもたげようとしているようです。
苦しみが尽きて喜びが訪れたあとも、
あなたがまだ死んでいないのなら、
その後の日々をどのように生きていくのでしょう?
私たちは、あなたのために、
どのように幸運の設計を続ければよいのでしょう?
問題は、やはり元の問題のままであるようです。
私たちは、それを解決できてはいません。
もちろん、今のあなたは苦しかった過去を絶えず思い返し、
現在の幸せをかみしめ、足ることを知って、
いつも楽しく過ごすことができます。
私たちも、あなたのその後の人生を、
このうえなく順調なものに設計することができます。
しかし、そのまま進めば、私たちは一周して、
またあの不吉な影のもとへ戻ってしまうのではないでしょうか?
あなたには、もう期待するものがなくなるのでしょうか?
新たに追い求めるものもなくなるのでしょうか?
そうなれば、あなたの心が歩む道は再び荒れ果て、
幸福感もまた、古び、萎縮し、
枯れ尽きてしまうのではないでしょうか?
そうです。必ずそうなるでしょう。
幸福感は、一度に十分な量を与えておけばよいというものではありません。
一度の幸福感がどれほど長く続くのかは計算できませんが、
人生の日々のほうが、それより長いことは確かです。
しかも、それより長く続く日々は、
いつまでもその幸福感を頼りにしなければならないのです。
ですから、あなたは目標までの距離を失ってはいけません。
新たな期待や追求するものがなくてはいけません。
一時的にでも距離を失えば、
その間は進むべき道も失います。
一時的にでも期待や追求するものを失えば、
その間は興味と活力も失ってしまいます。
そうなれば、私たちがこれまで重ねてきた努力は、
必ずすべて無駄になります。
あの影は、必ずその機会を逃さず、
退屈さや味気なさ、飽きや麻痺した感覚によって、
再びあなたにつきまとい、あなたを苦しめるでしょう。
そして同時に、
私たちの「幸運の設計」も葬り去ってしまうでしょう。
もちろん、私たちはそんなことを許しません。
ですから、私たちは引き続き、
あなたのために新たな距離を設け、
途切れることのない期待と追求するものを設計しなければなりません。
しかし、そうすれば、
あなたにはやはり苦しみが必要になります。
いつまでも必要になるのです。
そうです、そうです。
一時的にでも、幸福を際立たせる苦しみがなくなれば、
その間は幸福感もなくなってしまうのです。
本当に申し訳ありません。
こうなるとは、私たちも思っていませんでした。
私たちはずっと善意から、あなたを幸福にしたい、
来世ではたびたび
幸運に恵まれるようにしたいと考えてきました。
それなのに、まさか絶えず
あなたに苦しみを与えなければならないとは思いもしませんでした。
あの忌まわしい影には、
本当にひどい目に遭わされました。
見てみましょう。
そこから逃れる方法が、ほかにまだあるかどうか。
本当に申し訳ありません。
少なくとも、私はもう大きなことを言うのはやめます。
それでもまだ興味があるのなら、
もう一度試してみましょう。
いずれにしても、ここまで来たのですから、
慌ただしく考えを変える必要もないと思います。
来世のためにも、もう一度試してみましょう。
どうやら、この設計から苦しみをなくすことは、
ほとんど不可能なようです。
今となっては、道は一つしか残されていません。
苦しみを、できるかぎり小さくすることです。
どの程度まで小さくするかについて、
客観的な尺度はありません。
要するに、あなたが絶えず
それを消し去れる程度まで小さくすればよいのです。
つまり、あなたが絶えず困難を克服できること。
絶えず距離を乗り越えられること。
絶えず自分の願いを実現できること。
それでよいのです。
苦しみは絶えず存在していてもかまいません。
しかし、あなたがいつでも
それを消し去ることができれば、それでよいのです。
そうすれば、あなたは
そのろくでもない代物を巧みに利用して、
絶えず幸福感を得ることができます。
それでうまくいくのなら、
あとのことは私たちにお任せください。
私たちは、以上の条件に基づいて、
あなたに必要な才能、必要な機会と運、
必要な精神的資質と意志の強さ、
そして必要な資金、器具、施設、装備を設計します。
さらには、医師や看護師、
良き妻であり母である人、
親孝行な子どもや素直な孫など、
一連の優れた後方支援まで用意します。
要するに、これらはすべて、
私たちがあなたのために設計できます。
一人の人間が永遠に
勝利者であり続けることが可能でありさえすれば。
どのような苦しみであっても、
最終的には消し去ることが可能でありさえすれば。
そうでありさえすれば、
私たちの「幸運の設計」は完成したことになります。


もう、こうするよりほかありません。
これで完成したことにしましょう。
終わり 次回(最終回)へ続く
今回の朗読内容のポイントは「苦しみを完全に取り除いた人生を設計しても、人は幸福になれない」
全体を通じての最終部分が、次回の朗読にあるので、まだ、まとめをするには早いのだけど😅
今回、ハンハンが読んだ部分だけでも、
すでに「幸福をデザインするために必要な部分」が登場していて、
あの事件以降、苦難を乗り越えてきた ハンハンとオーバーラップする部分もあり。
私見ながら ポイントをちょこっとまとめてみました(;^ω^)
今日の部分のいちばん大きなポイントは、
「苦しみを完全に取り除いた人生を設計しても、人は幸福になれない」こと。
最初は、来世のために欠点も病気もない「最高に幸運な人生」を設計しようとするけれど、
ところが考えを進めるほど、
幸福を実感するには、それと対照になる苦しみや、
まだ届いていない目標までの「距離」が必要だと分かってきます。
特に重要なのは、この部分。
苦しみが尽きた瞬間には、大きな幸福を感じられる。
しかし、その幸福感は永遠には続かない。
新たな期待や目標がなくなれば、心は荒れ、幸福感も萎縮してしまう。
だから人には、乗り越えるべき困難と、追い求めるものが必要になる。
ただ「大きな苦しみほどよい」と言っているわけではなくて
最後には
「苦しみは、本人が努力によって絶えず克服できる程度に小さくする」という話になります(^-^;。
つまり理想の幸運とは、苦しみがまったくないことではなく、
困難があっても、それを一つずつ乗り越え、願いを実現し続けられること
まるで この5年のハンハンを思わずにいられない話に…。
ただ最後の「もう、こうするよりほかありません。
これで完成したことにしましょう」という 身も蓋もない部分で終わり…
この後、この話のオチは どこへいくのでしょう(;^ω^)?
残ってる文章量的に、次回で最後なので、
また 朗読が公開されたら この続きを読み解いてみましょ~💧(;^ω^)
ということで 以上 今日の第4弾でしたww
張ママがブログ更新!「ひとりの人を想い、ひとつの街へ―安順への旅の記録」
そしてここからは ハンハンのママのブログ。
一昨日公開された 最新記事を紹介します(^-^;
※今回、ハンハンの話が一切出てこないのだけど、
ママの親友と旅した話がつづられています。興味のある方だけ進んでください😅
張ママ8/28投稿「ひとりの人を想い、ひとつの街へ――安順への旅の記録」全文和訳

ひとりの人を想い、ひとつの街へ――安順への旅の記録
以前、私はWeChatの公式アカウントに
「私たちは互いの木に育った」という文章を書き、
羅お姉さんと長年変わることのない、
心の通じ合う友情を記しました。
真の知己とは、
朝な夕な一緒に過ごすことで結ばれる関係ではありません。
それぞれが歳月の風雨の中で、
地に足をつけて成長し、
山や海を隔てていても遠くから互いを想い、
毎年変わらず、相手の無事を見守り続ける存在です。
ちょうど真夏の時間にゆとりができたので、
私は旅支度を整え、
はるばる千里の道を安順へと向かいました。
中国西南部の山水を巡り、
友人との再会を果たす夏の旅が、
こうして穏やかに始まりました。
少し前、私は数人の女友達と
広西への旅行を約束していました。
山水に寄り添いながら、
のんびりと遠出することを心待ちにしていましたが、
突然発生した地震のため、
やむなく取りやめになりました。
その残念な思いは、その後も長く心に残っていました。
その後、羅お姉さんが
避暑のため安順に滞在していると聞き、
何度も心のこもった誘いを受けました。
その言葉の一つひとつが、
誠実で温かいものでした。
私はすぐに高速鉄道の切符を予約し、
この安順への旅を、
以前の心残りを埋め合わせる旅にしようと考えました。
長年の知己との約束を果たすと同時に、
貴州の山野にひそむ涼風と
山河に会いに行く旅でもありました。
正午を過ぎてから深圳を高速鉄道で出発しました。
列車は山を抜け、谷を越え、
千里の道を中国西南部へと進み
夜9時過ぎに安順へ到着しました。
穏やかで静かなこの西南の小都市を初めて訪れ、
ホテルに入ると、
長い間待っていてくれた羅お姉さんの姿がありました。
羅お姉さんは、
ほんのり甘い白きくらげのスープを
わざわざ用意してくれていました。
温かいスープを一杯飲むと、
旅の疲れもずいぶん和らぎました。
そして、初めて訪れたこの街への期待も、
いっそう膨らみました。
翌朝は空が明るく澄み、
そよ風も心地よい朝でした。
羅お姉さんとご主人は、
すでにホテルのロビーで待っていました。
私は足早に近づき、
両腕を広げて羅お姉さんと温かく抱き合い、
心の内にあった言葉を素直に口にしました。
「私は、この街を目当てに来たのではありません。
ひとりの人を想って、ここへ来たのです」
その言葉は、そばでくつろいでいた旅行客の耳にも入り、
皆さんはその気持ちを察したように、ほほ笑みました。
久しぶりに再会した喜びが、
一気に押し寄せてきました。
この素朴で偽りのない友情は、
ことさらに飾り立てる必要もなく、
優しく心を打つものでした。
そして、これから始まる山水を巡る旅の、
温かな幕開けとなりました。
同行するお姉さんたちは、
私よりも早く安順に到着し、
すでにこの小さな街の暮らしの風景を
いくつか見て回っていました。
そこで同じ場所を重ねて訪れることを避け、
行く先々で新しい景色に出会えるよう、
私は旅程全体をあらためて整理し、組み直しました。
皆の体力やペースに合わせ、
ゆっくり歩きながらじっくりと眺め、
安順とその周辺ならではの山水の生命力と、
人々の暮らしの息づかいを、
存分に味わえるようにしました。
気楽でゆったりとした旅にし、
移動にも不自由しないよう、
私たちは7人乗りのワゴン車を借りました。
車は青い山々と緑の野原の間を走り抜け、
道中の風景は次々と移り変わっていきました。
車内には笑い声があふれ、
温かな雰囲気に包まれていました。
私たちの旅は、
「安順古城歴史文化街区」から
ゆっくりと始まりました。
安順には、中国西南部の山水が持つ優美さと雄大さが、
ともに備わっています。
そして素朴な趣を残す旧市街こそが、
この小さな街に積み重なった千年の歳月と、
人々の暮らしの趣を宿す
根幹となる場所です。
幾重にも重なる青い瓦と
黒みを帯びた壁には、
歳月の痕跡が刻まれています。
ところどころ色あせた壁や、
古風な反り返った軒が、
西南部の旧市街ならではの
「雅やかな輪郭」を描き出していました。
縦横に入り組んだ
石畳の路地が曲がりくねりながら続き、
その通り沿いには
店が大小さまざまに軒を連ねています。
そこには、
人々の暮らしの気配が濃厚に漂っていました。
都会のにぎわいや喧騒から離れたこの場所には、
昔ながらのありのままの庶民の暮らしが、
今も残されています。
そして、ゆったりと穏やかに流れる
旧市街の時間が守られていました。
涼風が路地を吹き抜け、
古い街並みならではの
静かで奥ゆかしい趣を運んできます。
辺りは静かで穏やかで、
歳月までもがゆったりと流れているようでした。
素朴な趣のある路地に別れを告げ、
私たちは虹山湖公園へ移動し、
真夏ならではの澄んだ湖の風情と出会いました。
夏の虹山湖は草木が生い茂り、
見渡すかぎり
鮮やかな緑に包まれていました。
澄みきった湖には
青緑色の波がきらめき、
曲がりくねった湖岸に沿って、
ゆったりと広がっていました。
湖畔には柳の枝がしなやかに垂れ、
幾重もの緑が
湖面を優しく包み込んでいます。
その景色は涼やかで、
心を癒やしてくれるものでした。
湖を渡って吹いてくる風が、
水面を優しく揺らし、
きらきらと細かな波の光を生み出します。
私たちは遊覧船に座り、
1時間近く湖上を巡りました。
その光景はまさに、
「一筋の水が澄んだ碧をたたえ、
幾千の峰が鏡の中へ映り込む」
という詩情あふれる景色そのものでした。
湖と山の風景が互いに溶け合い、
木陰と涼風がいつも寄り添っています。
その景色は静かで奥深く、
生き生きとした趣があり、
どこか江南地方の優美で
穏やかな風情も漂わせていました。
真夏の暑さを避けて涼み、
心を落ち着かせて何も考えずに過ごすには、
まさに理想的な場所です。
今回の旅では歩みを止めることなく、
充実した日程をこなしました。
私たちは事前に計画したルートをたどって
山々の奥深くへ入り、
山野にひっそりとたたずむ、
千年の歴史を持つプイ族の秘境
―高蕩古寨を訪ねました。
古い集落全体が、
青い山々に抱かれるように
静かに横たわっています。
石造りの古い家々が
山の斜面に沿って建ち、
ほどよい間隔で並んでいました。
石畳の細い路地が
曲がりくねりながら集落を縫うように続き、
石橋は静かに架かり、
小川はさらさらと音を立てて流れていました。
600年にわたって受け継がれてきた、
プイ族の素朴な暮らしの営みが、
山野を渡る涼風の中で
静かに流れ続けています。
そこは、都会の喧騒や
わずらわしさから遠く離れた場所でした。
目に映るのは、
峰々に囲まれた素朴な村落です。
耳に届くのは、
風が壁をかすめる音と、
小川のせせらぎが奏でる自然の調べです。
明るい陽光が
山野いっぱいに降り注ぎ、
のどかな山の景色が胸の中へと入ってきます。
俗世の喧騒から遠く離れた、
この穏やかで静かなひとときは、
旅の中でもひときわ大切に感じられる、
優しい風景でした。
翌日も、私たちは山野を巡る旅を続けました。
当初は車で花江大橋へ向かう予定でしたが、
思いがけずナビの案内にずれが生じ、
花江大峡谷へ迷い込んでしまいました。
意図せず足を踏み入れたこの場所で、
かえって私たちは、
この旅で最も思いがけなく、
そして、最も心を揺さぶられる
壮大な山河の絶景に出会いました。
夕暮れの色が幾重にも連なる山々を染め、
山間には観光客の姿もまばらでした。
峡谷一帯は果てしなく広がり、
どこかもの寂しさをたたえながらも、
静かで壮大な迫力に満ちていました。
数億年にわたる風雨による浸食と
地質の変化を経て、
この峡谷には、千丈もの深さを思わせる谷間が刻まれ、
雄大な地形がつくり上げられました。
両岸の断崖は険しく切り立ち、
まるで刀や斧で削り取ったかのようです。
山々が幾重にも重なり、
そびえ立つ姿は、雄大で力強いものでした。
緑色の北盤江は谷底深くに身をひそめ、
曲がりくねりながら勢いよく流れ、
よどみなく東へ向かっていました。
その流れが、
力強く壮大な山河の景色に、
生き生きとした動きと
優美な趣を添えていました。
花江大橋は空中に大きく架かり、
まるで長い虹のようでした。
高くそびえる橋塔は、
幾重にも連なる山々を突き抜けるように立ち、
深い峡谷の上を横断しています。
人工建造物の壮大な迫力と、
自然の山河が持つ雄大で奇絶な景観が、
見事に溶け合っていました。
見渡すかぎり広大な山河が続き、
目に映るものすべてが、
圧倒されるほどの光景でした。
続く丸一日、
私たちは安順を代表する奇景
――織金洞の神秘を、じっくりと探訪しました。
「地下の天宮」「鍾乳洞の王」
と称されるこの場所は
「織金洞のほかに、洞窟の別天地はない」
という最高の賛辞に、
まさにふさわしいものでした。
今回の旅で最も魂を揺さぶられるほど美しく、
同時に心身を最も鍛えられた
自然の奇観でもありました。
洞窟内の見学には、全行程で4時間近くかかりました。
遊歩道は曲がりくねり、
何度も坂を上り下りしながら、
あちらこちらを通り抜けていかなければなりません。
高低差のある長い道のりは、
体力と足腰にとって、
まさに厳しい試練でした。
洞窟内は一年を通して温度が一定に保たれ、
しっとりと心地よく、
涼しい風が絶えず吹いています。
真夏の蒸し暑さも、
外の喧騒も遮断されていました。
無数の鍾乳石や石筍、
石柱、石のカーテンが大小さまざまに立ち並び、
その姿は千変万化し、
圧倒的な迫力を放っています。
この世に存在するあらゆる景色を、
奥深い地下にすべて凝縮したかのようでした。
そこには万物を包み込む、
見る者の心を揺さぶる
地下世界がつくり出されていました。
大自然は、数億年という歳月を物差しにし、
水の流れを筆として、
暗い地底を丹念に彫り上げ、
この世にある壮大な山河の絶景を再現しました。
高くそびえ、広範囲に連なる巨大な石の群れが、
雄大に広がっています。
幾重にも重なりながら
大小さまざまに並ぶ姿は、
壮大な構成を見せています。
それはまるで、
宙にそびえ立つ天上の宮殿や古城のようでした。
幾層もの楼閣やあずまや、
丸天井、空へ反り上がる軒が、
自然の力だけで一体となって形づくられています。
そのたたずまいは荘厳で壮大であり、
世にまたとない威厳を備えていました。
起伏しながら連なる石の丘は、
表面の模様が複雑に重なり、縦横に谷筋が走っています。
その姿は、千里にわたって続く
山野の田畑や、幾重にも連なる山々のようでした。
果てしなく広大で、遠い余韻を残す景観です。
滑らかに広がる石のカーテンには、
さざ波のような模様が起伏を描いていました。
そこに静かな窪地の地下水が重なり、
幾重もの波の痕跡がうねりながら延びていきます。
それはまるで、絶え間なく押し寄せる
果てしない大海や、
曲がりくねりながら流れ続ける
大河のようでした。
水が滔々(とうとう)と流れ、
風が吹いて波が立つような雄大な情景が、
目の前に迫ってきます。
一つの洞窟に天地が収められ、
一歩進むごとに新たな世界が現れます。
壮大な宮殿、堅固な城壁に囲まれた古城、
縦横にあぜ道が走る田野、
連なる山々、果てしない大海――。
地上で目にするあらゆる山河の姿が、
この地下の秘境に一つひとつ再現され、
完璧な形で現れていました。
光と影が交錯する中、
奇岩には淡い光がきらめいていました。
現実と幻が入り混じるような、
幻想的で壮大な光景です。
どの景色も生きているかのように迫り、
千変万化の趣をたたえています。
大自然の人知を超えた造形の妙が、
余すところなく表現されていました。
すべてを見終えた頃には、
足は痛み、張ってしびれ、
心身ともに疲れ切っていました。
まさに、身体の持久力を試される見学でした。
しかし、目の前に幾重にも広がる世にもまれな奇景は、
最高の視覚の饗宴であると同時に、
心の奥底を直接揺さぶるほどの感動を与えてくれました。
この瞬間、私は深く悟りました。
この世の極上の絶景というものは、
決して簡単に出会えるものではありません。
いつまでも忘れられない山河の絶景にたどり着くには、
やはり歩き続ける苦労を払い、
旅の疲れに耐えなければなりません。
そうして初めて、
山河から与えられた贈り物に応えることができるのです。
それまでの慌ただしさも疲労も、
目の前に広がる唯一無二で、
あらゆる景観を内包した地下の奇観によって、
最後にはすべて癒やされました。
心に残ったのは、畏敬の念と、
いつまでも消えることのない驚嘆だけでした。
旅が中盤から後半に差しかかった頃、
羅お姉さんの姪御さんから温かいお誘いをいただき、
旅の間ずっと案内にも付き添ってもらいながら、
私たちは貴陽へ向かいました。
貴州省の省都に息づく、
古いものと新しいものが溶け合った
独特の風情を味わうためです。
私たちは順に、観山湖公園、
「貴陽ホワイトハウス」、
甲秀楼という、三つの街のランドマークを訪れました。
観山湖のほとりを歩くと、
湖面は広く澄み渡り、
両岸には草木が青々と生い茂っていました。
庭園の景観は上品で清々しく、
湖と山の風景が一つに溶け合い、
穏やかで心を癒やしてくれるものでした。
簡潔でありながら堂々とした
「貴陽ホワイトハウス」の建物からは、
現代都市らしい洗練された趣が感じられました。
千年の歴史を持つ甲秀楼には、
古雅な趣が漂っています。
反り返った軒と黒みを帯びた瓦は、
貴陽に千年にわたって
積み重ねられてきた文化の歴史と奥深さを伝えていました。
現代都市の華やかなにぎわいと、
古い建築物が持つ
優雅な「文化的趣」が互いを引き立て合い、
貴陽ならではの山水の風格と、
街の気品を描き出していました。
真夏の景色が最も美しい時期に、
私たちは「十里荷廊」を目指して
わざわざ足を運び、
夏だけに出会える、清らかな蓮池の風情を楽しみました。
約667ヘクタールにもおよぶ広大な蓮池が
一面に連なり、緑の波が揺れていました。
丸い蓮の葉が幾重にも広がり、
見渡すかぎり、
しずくがこぼれそうなほど
みずみずしい緑に包まれています。
涼やかで心地よい景色でした。
そよ風が吹くと、
蓮の葉がひらひらと舞うように揺れ、
ほのかで上品な蓮の香りが
風に乗って辺りに広がり、
心の奥まで染み渡りました。
水辺に沿って設けられた木道を、
ゆっくりと歩きました。
澄んだ水、涼風、緑の蓮が互いに溶け合い、
穏やかでのどかな夏の山水画を織りなしていました。
一歩進むごとに美しい景色が現れ、
そのたびに心を奪われました。
旅も次第に終わりへと近づきました。
羅お姉さんの親しい友人ご夫妻から温かくお招きいただき、
私たちは涼しく心地よい六盤水へ向かいました。
そして、海坪イ族文化観光村と
野玉海国家級観光リゾートを巡りました。
烏蒙山脈は果てしなく連なり、
広大な森林がどこまでも広がっていました。
真夏のさなかであるにもかかわらず、
この場所には爽やかな風が吹き、
涼しさが満ちていました。
イ族の風情を伝える小さな町の建物は、
素朴で重厚な趣があり、
民族色にあふれていました。
そこには、
少数民族の豊かで奥深い文化が息づいていました。
野玉海リゾートには広大な山野が広がり、
森林は静けさに包まれていました。
雄大な自然の山河と、
独特の民族文化が互いを引き立て合い、
ほかにはない心を打つ風景をつくり出していました。
観光の途中、
私は思いがけず体調を崩してしまいました。
現地で迎えてくださったご夫妻は
温かく接してくださり、
薬を用意し、細やかに世話をしてくれました。
そのおかげで、体の不調も和らぎました。
偶然出会った方から寄せられた、純粋な善意でした。
その優しさによって、
美しい山野の風景に加え、
人と人との間にある温かく心を打つ思いやりも、
この旅に刻まれました。
安順の旅の最後に、
私たちはそろって「龍宮」を訪れ、
この真夏の山水を巡る旅を
穏やかに締めくくりました。
鍾乳洞の遊覧船乗り場にたどり着くには、
曲がりくねり、
起伏のある山道を通らなければなりません。
私たちは山間の道をたどりながら
1時間かけて進みました。
乗船を待つ人々の列も、
山の地形に沿って少しずつ進んでいきます。
階段を上り下りし、
曲がりくねった道を抜け、
高低差のある山道をゆっくりと前へ進みました。
長い山道を歩き、階段で順番を待った末、
私たちはようやく無事に船へ乗り、
静けさに包まれた
奥深い地下河川へと入っていきました。
遊覧船はゆっくりと水面を滑り、
鍾乳洞の奥深くを進んでいきます。
洞内には鍾乳石が垂れ下がり、
石筍が林立していました。
その姿は実に多様で、
大小さまざまに美しく配置されていました。
色鮮やかな光と影が、
波にきらめく水面へと降り注いでいます。
現実と幻が交錯するような、
深い余韻を残す景色でした。
水路全体が複雑に曲がりくねり、
進むたびに景色が変わり、
一歩ごとに驚くような光景が隠されていました。
大自然が長い歳月をかけて彫り上げた美しさが、
ここでは余すところなく現れていました。
曲がりくねった山道を進むのは大変でしたが、
幸いにも親しい友が旅の間ずっとそばにいて、
共に歩き、同じ景色を楽しんでくれました。
そのおかげで、それまでの慌ただしさも
疲れもすべて心から消え去り、
ここまで足を運んだことのすべてに、
価値があったと思えました。
龍宮の見学をもって、
旅全体に穏やかな終止符が打たれました。
今回、千里の道を越えて
貴州の山河を訪れるにあたり、
私が心の中で最も楽しみにしていた景色は、
名高い「黄果樹瀑布(こうかじゅばくふ)」でした。
※黄果樹瀑布(こうかじゅばくふ)は、貴州省安順市にある有名な滝の名称
しかし、真夏の夏休み期間で観光客があふれ、
チケットは入手困難となり、予約も取れませんでした。
結局、わずかな心残りを残すことになりました。
この世の旅に、
百パーセントの完全な満足というものはありません。
実際に目にした景色は心を豊かにし、
訪れることのできなかった山や海は、
次の旅への想いとして残ります。
少しばかりの心残りがあることで、
かえってこの旅には、いつまでも続く余韻と新たな期待が加わりました。
いつかまた時間ができたら、
もう一度貴州を訪れ、この心残りを埋め、
果たせなかった山水との約束の続きを歩きたいと思います。
ここまでの道のりで、旧市街に息づく人々の暮らし、
湖と山の清らかな風情、古い集落の民俗、
峡谷の雄大な姿、鍾乳洞の秘境、蓮池の美しい景色を、
一つひとつ目に焼きつけました。
中国西南部の山水が持つ、
優美で生き生きとした美しさと、
雄大で圧倒的な迫力を、余すところなく味わいました。
一つの旅で山水を巡り、
道中ではいつも温かな思いやりが寄り添ってくれました。
心の通じ合う友のために出発した、
この真夏の貴州への旅。
安順とその周辺に広がる、
さまざまな山河の姿と、
人々の豊かな暮らしの風景を見尽くしました。
そして、歳月を重ねても変わらず互いを見守り続ける、
真摯な友情を、大切に心の中へしまいました。
人生の旅路には、数え切れないほどの美しい景色があります。
しかし、最も得難いものは、
決して究極の絶景ではありません。
道中を共にしてくれる温かさと、
互いを理解し、大切に思い合える心のつながりです。
私たちはそれぞれに、歳月の中で経験を重ね、
成長してきました。
遠く離れた場所から互いを見つめ、
思いを寄せ合っています。
いつもそばにいる必要はありません。
それでも、その想いは毎年、必ず響き合っています。
真夏の涼風に背くことなく、
千里にわたる山河に背くことなく、
久しぶりの再会に背くことなく――。
そして何より、ひとりの人を想って心を動かされ、
ひとつの街へと向かった、
この先の人生をも温めてくれる、
熱い再会のひとときを裏切ることなく、大切にしていきたいと思います。
めちゃくちゃ長かった…(;^ω^)
※ウイチャットブログ=原文サイトの最後に ママの動画があります。興味のある方は飛んでみてください。
ではでは 今日はこのへんで。ここまでご覧くださりありがとうございましたww
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