ハンハンが表紙を飾った「マリクレール」(セルビア版)の公約第2弾。
韓国ソウルでの「デジタル街頭広告」が、無事掲出されました♪
(※現地の海哲さんが実物を投稿してくれました♡)
加えてママブログの最新版も登場。もろもろまとめてご紹介します。
チャンジャーハン×マリクレール5万部突破公約「韓国ソウル」デジタル広告
ではでは さっそく♪ マリクレールの5万部公約第2弾。

韓国ソウルの実物、現地を訪れた海哲さんの投稿から ご紹介します(〃▽〃)ポッ
※公約の話が「??」な皆様は、過去投稿で>>【5万部突破公約】チャンジャーハン×マリクレール「韓国、タイ、英国でデジタル広告7/20~掲出開始」
韓国ソウルでの「チャンジャーハン×マリクレール」デジタル広告(7/25掲示)
旅行の日程が最高すぎる!梨泰院に聖地巡礼に来たよ!
ダーリン~~~~~~!!
韓国のクラゲちゃん(※ハンハンファン)にも会えた!
「ベトナムでまた会おうね」って約束したよ!
あああああ、本当に幸せ~~🥹🥹🥹🥹
投稿元リンク先はこちら
なんと ベトナムの海哲さんが 韓国旅行中に、遭遇した模様ww
貴重な投稿に大感謝!!
そして 動画も!
全編動画も追加でどうぞ。
↑大感謝♡
そしてこちらに 別の海哲さんからの、写真&動画も!


韓国の梨泰院に ハンハン登場! やっぱ、目立ちますネ(^ー^* )フフ♪
あとは ロンドンなんだけど… 時差があるからまだお見掛けせず。
また現地の海哲さんから何か上がってくるはずなので…見つけたらご紹介します。
タイ・バンコクの交通広告、追加写真も登場!
そしてこちらは すでに実施中の、タイ・バンコクでの交通広告。
今日 現地の海哲さんが 写真を投稿してくれました(〃▽〃)ポッ



LED屋外広告
『Marie Claire』誌 × チャン・ジャーハン(Zhang Zhehan)
タイ・バンコクのBTSスカイトレイン3駅(サイアム駅、ナショナル・スタジアム駅、アソーク駅)にて掲出
投稿元リンク先はこちら
タイ・バンコクは 掲示期間が長いせいか、新写真がちらほらでてて ありがたい♡
投稿下さり ありがとうございました。(〃▽〃)ポッ
張ママがブログ更新! 『易経』を読んで感じたこと(7/24更新)
そして ママブログ。昨晩公開された最新版を全文和訳でご紹介します。
正直 今回は、「易経」の話がたくさん出てくるので 専門用語が多くていつも以上に難しいんだけど…
よかったら読んでみてください😅
張ママブログ7/24投稿「人生は本来、常に「未済」である――『易経』を読んで感じたこと」全文和訳

人生は本来、常に「未済」である――『易経』を読んで感じたこと
※未済:「まだ完成していない」「まだ成就していない」「まだ渡り切っていない」という意味。
完成していないからこそ、これから先がある」「人生は完成したと思った瞬間に止まるものではなく、常に未完成のまま続いていく」という意味合いが強いタイトルです。
今年の清明節、私は毎年の習慣どおり新余へ戻り、
両親のお墓参りをし、かつて勤務していた場所も訪ねました。
※清明節:毎年 4月4日〜6日頃。
二十四節気の「清明」にあたる日。日本のお彼岸に少し近い意味合いがあります。
この土地には、私の最も大切な家族が眠っています。
そして同時に、私が数十年にわたり公職に就いてきた歳月も刻まれています。
人生の半分をかけて懸命に働き、
守り続けてきた日々のすべてがこの地に残されており、
今では私の心の中で、かけがえのない「第二の故郷」となっています。
変わらぬ風景を目にし、懐かしい人々と再会すると、
長く心の奥にしまわれていた思い出が一気によみがえってきました。
公職人生の中で経験した数々の転機や、
浮き沈みのあった歳月の情景が、
昨日のことのように鮮明によみがえります。
胸にはさまざまな思いが込み上げ、
私は4月3日、自身の公式アカウントに『人生は、あまり完璧である必要はない※』という随筆を書き記しました。
※先週公開されたママブログのことです。
過去記事で紹介済み>>チャンジャーハンのママがブログ更新!『人生は何度でもやり直せる』を読んで」

1.故郷へ帰って墓参りをし、人生の浮き沈みに思いを巡らせる
あの文章は、
私が人生の半分を歩んできた中で得た、
「最も率直な人生の気づき」
を綴ったものでした。
この数十年、
私は新余で地に足をつけて職務を果たし、
この土地に根を下ろしてきました。
その後は深圳へ赴き、
さまざまな経験を重ねながら
自分自身を磨いてきました。
またその一方で、
夢を追い続ける息子が、
幾度も壁にぶつかり、
試練を乗り越えながら
歩んでいく姿も見守ってきました。
歳月は静かに流れ、
私は長年心に根づいていた完璧主義を少しずつ手放し、
この世にはもともと不揃いな部分があり、
人生は何もかも
思いどおりにはならないものだという現実を、
次第に受け入れられるようになりました。
今あらためて振り返ると、
当時の自分が得た「悟り」は、
やはりまだ浅いものだったと思います。
それは、世の中の無常を見つめ、
得ることと失うことの両方を味わい尽くした末に、
ようやく人生に優しく歩み寄り、
流れに身を任せて人生と和解することができた
――その程度のものに過ぎませんでした。
当時の私は、
人生にさまざまな欠けた部分があることを
受け入れることはできていました。
しかし心の奥には、
どうしても拭いきれない疑問が残っていました。
人は一生をかけて
「円満」や「完璧」を追い求めるのに、
なぜ人生は最後まで
完全なものにはならないのでしょうか。
こうした、生まれながらにして存在する
「不完全さ」の裏側には、
いったいどのような
「この世の法則」が隠されているのでしょうか。
当時の私の認識や心境は、
結局のところ、
自分自身の境遇や世俗の喜び、
悲しみという枠の中にとどまっていました。
私は、自分の思いどおりには
ならなかった公職人生や、
世の中のすべてが
思いどおりにはいかないことについては
受け入れることができました。
しかし、一人の母親としての
「ささやかな願い」だけは、
どうしても手放すことができませんでした。
私はただ、息子の歩む道が平坦で、
一生を安らかに過ごせることを願っていました。
そして、彼が懸命に努力し、
黙々と守り続けてきたものが、
すべて報われることを願っていました。
まさにその執着があったからこそ、
私は、はっきりとわかっていたのです。
当時の私の気づきは、
まだ人生の表面的な部分にとどまっており、
この世や人生の本質にまで、
本当の意味で触れることはできていなかったのだと。
私がようやく、
それまでの固定観念から一歩抜け出し、
少しずつ心の視野を広げられるようになったのは、
この数か月間、
静かに『易経』を読み、
自らを省みて
「心を磨き続けた日々」のおかげでした。
私は以前から、
読書を通して自分を見つめ直す習慣を持っており、
とりわけ古典に込められた
思想や哲学を読むことを好んでいました。
長年心に抱えてきた
人生への疑問を解き明かしたいと思い、
私は『漫画でわかる易経(漫画讲透易经)』という、
一般向けの入門書を購入しました。
難解な古文で書かれた原典と比べると、
この本は現代語とイラストを用いて
数千年にわたる古典をわかりやすく解説しており、
古典特有の難しさを取り除いてくれていました。
そのおかげで、
私は無理なく『易経』の世界へ入り、
その中に込められた
処世の知恵や人生の哲理を、
少しずつ味わいながら
理解していくことができました。
読書を進める中で、
息子は私が熱心に
『易経』の卦に込められた意味を学び、
人生における「進退や得失」の
根本的な仕組みを探究している様子を見て、
自ら進んで質の高い
「六十四卦」の解説動画を整理して私に共有してくれました。
そして、私と一緒に学び、
道理を悟ろうとし、お互いに高め合ってくれたのです。

2.『易経』を読み深め、思い込みの壁を打ち破る
息子は長年、仕事のため遠方で暮らしています。
そのため私たちは普段、主にオンラインで交流しています。
時間のあるときには、お互いに読書の感想を語り合い、
『易経』の卦に込められた要点について話し合い、
人生についての気づきを分かち合っています。
そうして互いに刺激を受け、
学び合いながら、それぞれの成長につなげています。
この、遠く離れていても
ともに学び続ける時間を、
私はとても大切にしています。
そして、息子が共有してくれた解説動画は、
すべて大切に保存しています。
私は毎日午後、ランニングマシンで
1時間ほど軽く走ることを日課にしています。
体をほぐし、心身を整えながら
解説動画を繰り返し視聴して学んでいます。
体を動かして健康を養い、
心を静めて精神を磨く
――身体を養うことと道を学ぶこと、
そのどちらも怠ることなく、
毎日少しずつ成長し、少しずつ学びを積み重ねています。
こうして毎日繰り返し考え、
じっくり味わいながら学び続けるうちに、
『易経』が伝える天地の大道について、
まだ浅いながらも確かな理解を得ることができ、
少しずつ、
この数千年受け継がれてきた
古典の知恵に触れられるようになりました。
この入門書のわかりやすい解説に加え
息子が共有してくれた
さまざまな資料にも助けられたことで、
私はこれまでの断片的で
偏った認識から抜け出し、
やがて一つの重要な道理を理解するようになりました。
『易経』が数千年にわたって
受け継がれてきた深遠な知恵の大半は、
その全体を締めくくる
最後の一卦に込められている、ということです。
多くの人は『易経』を誤解しています。
単に吉凶を占い、
幸不幸を予測するための「占術の書」だと考えているのです。
しかし実際には、六十四卦が
この順序で配置されていること自体が、
古代の聖人たちが生涯をかけて知恵を尽くし、
天地の盛衰、万物の満ち欠け、
そして、人生における「進退の法則」を
体系的にまとめ上げたものなのです。
多くの人は「円満」に執着しています。
だからこそ、
この世のあらゆる姿を語り尽くし、
人生の法則を網羅したこの古典も、
最後はきっと「既済卦」
―すべてが順調に成し遂げられ、完全な成就を意味する卦―
で、締めくくられているはずだと思い込んでいます。
しかし、聖人の見識は、
すでにそうした世俗的で狭い執着を超えていました。
そして彼らは、最も素朴でありながら、
最も深い答えを示していたのです。
六十四卦は、一卦ごとに積み重ねられ、
順を追って展開されながら、
人の世の栄辱や盛衰、
世の中の浮き沈みと輪廻を描き尽くし、
天地万物のあらゆる姿と、
人間社会の「さまざまなあり方」を映し出しています。
しかし、この壮大な古典を締めくくる最後の卦は、
「既済卦」
――すべてが完成し、円満に閉じることを意味する卦ではありません。
それは、まだ満ちていない、
まだ尽きていない、
まだ終わっていない、
まだ完全ではないことを意味する「未済卦」なのです。

3.最後の卦「未済」が、人生の真実を明らかにする
これこそが、『易経』が伝える最も素朴で、
最も本質を突いた、
そして世俗の幻想を、
最も鋭く打ち破る人生の知恵なのです。
また、私がこの古典を浅く学ぶ中で、
最も深く心を動かされた気づきでもありました。
もし、「円満」こそが天地における永遠不変の姿であり、
人生の正しいあり方なのだとしたら、
聖人たちが天地万物と、
人の世のあらゆる出来事を
知恵の限りを尽くして推し量ったこの古典は、
きっと「既済卦」を最後に据え、
人々が思い描く「完璧な人生」への願いを
成就させる形で締めくくられていたはずです。
しかし、永い時を超えて受け継がれてきた
「天の道」が示した答えは、
最後に「未済」という二文字で締めくくられていたのです。
この最後の一卦だけで、
人生の最も本質的な真実が語られています。
天地の間には、
絶対的な円満というものはありません。
人の一生には、完
璧な結末というものはありません。
この世のあらゆる物事には、
完全な完結というものはありません。
人生が思いどおりにならないことも、
世の中に欠けた部分があることも、
決して運命が人をわざと苦しめているからではありません。
それは、天地万物が生まれながらに備えている、
永遠に変わることのない自然の法則なのです。
「既済」とは、物事が成就し、
すべてが円満に終わり、すべてが落ち着いた状態を意味します。
しかし、それは結局のところ、
一瞬のうちに過ぎ去る、ほんの束の間の状態にすぎません。
天地万物は常に、
満ちれば欠け、極まれば衰えるという法則に従っています。
満月はやがて欠け、水は満ちればあふれます。
あらゆる物事は、
ひとたび極限まで完成すると、
そこで停滞し、やがて衰退へと向かいます。
究極の円満とは、
決して人生に長く与えられる贈り物ではなく、
むしろ物事が盛りから衰えへ転じる始まりなのです。
一方で、聖人があえて
『易経』全体の締めくくりに据えた
「未済」こそが、
天地にも人の世にも貫かれている、
永続する本来の姿なのです。
天地の営みそのものが、
極限の完成を拒みます。
人の営みもまた、
生まれながらに欠けた部分や余白を抱えています。
普通の人の人生とは、
本来、歩み続け、成長し続け、
そして常に「未だ尽きない」ものなのです。
人生は本来、常に「未済」であるべきなのです。
それは、どうしようもなく
現実に妥協することではありません。
天地自然の本来の姿に従うことであり、
私たちが一生をかけて自らを磨き、
成長し続けるための、本来あるべき姿勢なのです。
ここに至って私は、
二つの随筆の間にある認識の違いをはっきりと実感しました。
私は、世俗的で表面的な人生観から
「天の道」に近づく認識へと、心境が大きく変化したのです。
そして、物事を見る視野や器も、
知らず知らずのうちに少しずつ広がってきました。
もちろん、『易経』の教えは非常に広大で奥深く、
私自身は、一般向けの入門書や
インターネット上の動画で学び始めたばかりです。
理解できているのは、
まだ表面に触れた程度であり、
その大道の全体像には、到底及びません。
だからこそ、日々学び続け、
その積み重ねの中で少しずつ理解を深め、
長い時間をかけて成長していくしかないのです。
以前書いた『人生は、あまり完璧である必要はない』は、
私が人生の半分を歩み、
浮き沈みを経験した中で得た、
現実の人生から生まれた気づきでした。
得ることも失うことも、
人の温かさも冷たさも味わい尽くし、
この世の移り変わりを見つめてきた私は、
自らの経験を通して、
少しずつ人生の不完全さを受け入れ、
穏やかに人生と向き合えるようになりました。
しかし、その「悟り」は、
結局のところ、一人の人間が幾多の苦難を経験した末に、
ようやくたどり着いた「受け入れ」にすぎませんでした。
私は、人生には必ず
欠けた部分があることは理解していました。
けれども、その欠けた部分が、
なぜ太古の昔から変わることなく存在し続けているのか――
その理由までは理解しておらず、
見えていたのは現象だけで、
その根本まではわかっていなかったのです。
今、この『人生は本来、常に「未済」である』
という文章を書いている私は、
『易経』の道理をごく浅く学んだことによって、
一歩進んだ心境に至っています。
私は少しずつ、自分自身の得失や、母としての私情、
そして世俗の喜びや悲しみという狭い枠組みから抜け出し、
「未済卦」への浅いながらも確かな理解を通して、
万物が動く根本的な法則に少しだけ触れることができました。
聖人が最後を「未済」で締めくくったことは、
すでに静かに後世の人々へと語りかけています。
人生は、
もともと何もかも思いどおりにはならないもの。
無理に「完璧」を求めること自体が幻想なのだ。
完璧に執着するあまり心をすり減らし、
欠けたものを受け入れられずに苦しみ続けることは、
結局のところ「天の道」を理解せず、
その流れに逆らって自らを縛りつけているに過ぎないのです。
これまでの人生を振り返ると、
私が長い間抱えてきた迷いや心の消耗は、
結局のところ、自分の認識の浅さと視野の狭さに原因がありました。
以前の私は、
心の奥深くに強い完璧主義を抱いていました。
仕事では、何一つ抜け漏れなく完璧にやり遂げたい。
人と接するときには、誰もが満足するように配慮したい。
子育てでは、息子が順風満帆に歩み、
一生苦労なく過ごしてほしい。
私はいつも、思いどおりにならないことや
願いがかなわないことを引きずり、
人生の不完全さを、
自分の力不足や運命の不公平のせいだと思っていました。
表面上は人生を受け入れているように見えても、
心の奥底には、ずっと
割り切れない思いと寂しさを抱え続けていたのです。
『易経』を静かに学んだこの時間は、
私に人生の真実を少しずつ悟らせてくれました。
人生に数多く存在する「不完全さ」は、
決して運命が意図的に私たちを苦しめているのではありません。
それは、天地の大道がもともと
そのように定めている姿なのです。
六十四卦は、この世のあらゆる姿を包み込み、
人間社会のさまざまな営みを描き尽くしています。
その最後の卦ですら「未済」で終わるのです。
それなのに、私たち普通の人間の日常が、
どうして何もかも円満であるはずがあるでしょうか。
完璧を執拗に求めることは、
天の流れに逆らうことです。
欠けた部分を受け入れ、
「まだ終わっていない」ことを穏やかに受け入れることこそが
「天の道」に従う人生の修養なのです。
このような「天の道」への浅いながらも新たな気づきを得て、
自分の半生を振り返ってみると、
かつて私を苦しめ、長く心を乱していた数々の挫折や浮き沈みは、
今ではまったく違う意味を持つようになりました。
私は少しずつ、より大らかに、
より長い視点で、そしてより本質を見据えながら、
人生の得失を見つめられるようになり、
この世のあらゆる無常を穏やかに受け入れられるようになったのです。
新余で数十年間職務に就いていた頃、
私は仕事に誠実に向き合い、
責任を尽くし、何事にも万全を期していました。
あらゆる立場に配慮し、
すべてを円満に収めようとしていました。
しかし結局は、すべての人を満足させることも、
すべての物事を思いどおりに成し遂げることもできませんでした。
以前の私は、それを
自分の配慮不足や能力不足のせいだと責め続けていました。
しかし今では、そのことも受け入れられるようになりました。
天地の大道ですら、
「未済」で締めくくられているのです。
この世に存在する不揃いさや欠けた部分は、
本来、この世界のあるべき姿なのです。
本当に仕事を全うし、
人として生きるということは、
絶対的な完璧を求めることではありません。
「まだ足りない部分」を受け入れ、
不完全さを包み込みながら、何を取るべきか
どこで立ち止まるべきかを心得て、
初心を守り、たゆまず歩み続けることなのです。
深圳で20年にわたり奮闘する中で、
私は世の中の浮き沈みや、
自分の境遇の変化を数多く経験してきました。
また、自分ではどうすることもできない現実に、
不満やもどかしさを覚え、
心の中で苦しんだこともありました。
しかし今は、「未済卦」の知恵によって、
ようやく少し悟ることができたように思います。
順風満帆な人生とは、
もともと人生における偶然のひとときにすぎません。
浮き沈みを繰り返し、
得ることと失うことが常に寄り添っていることこそ、
この世の変わることのない姿なのです。
人生に、最初から最後まで
平坦で何事もなく続く道などありません。
風雨に鍛えられ、
ときには余白を残しながら歩むことこそが、
命が成長していく本来の姿なのです。
まさに、この絶えず続いていく「未済」があるからこそ、
人は未来へ向かう情熱を持ち続け、
自らを成長させる余地を持ち、
絶えず努力し続ける力を得られるのです。
歩みを止めることなく、
より高みを目指し続けられるのです。
このように心境が変わっていく過程の中で、
私が最も心を軽くされ、
大きく視野を広げることができたのは、
子どもに「完璧な人生」を望む執着を、
ようやく手放せたことでした。
前の随筆を書いた頃の私は、
自分自身の半生における不完全さや
欠けた部分は受け入れられていました。
しかし、母親としての優しい私情だけは、
どうしても手放すことができませんでした。
私は、息子が長年、外で懸命に
頑張り続けていることを思うと胸が痛み、
風雨にさらされ、
幾度も試練を経験する姿を見るのは
忍びありませんでした。
ただひたすら、彼の前途が平穏でありますように、
努力がすべて報われますように、
一生を順風満帆に、円満に歩んでほしいと願っていました。
子どもに「完璧な人生」を歩んでほしいと願う、
その母としての思いこそが、
当時の私にとって最も乗り越えられない認識の壁だったのです。
しかし今、「未済卦」の深い教えを
浅いながらも理解できるようになり、
私は少しずつ、そのような世俗的な願いを手放せるようになりました。
天地万物ですら完全ではなく、
最後まで「未済」であるのです。
それなのに、平凡な人間の一生だけが、
どうして究極の円満を求めなければならないのでしょうか。
息子が夢を追い続ける中で経験してきた浮き沈みや、
風雨の中を歩み続ける日々は、
一見すると欠けたことばかりのように見えます。
しかし実際には、
それこそが「天の道」に従った、ごく自然な歩みだったのです。
まさに、思いどおりにならなかった数々の出来事や、
かなわなかった願いがあったからこそ、
若い頃の焦りや名声への執着がそぎ落とされました。
そして彼は、静かに努力を積み重ね、
自らを見つめ直し、経験を通して視野を広げ、
心を鍛えながら、
自分の愛する芸術の世界で黙々と腕を磨き続けました。
その結果、物事を本質から見つめる力と、
しなやかな強さ、
そして、落ち着いた大きな器を育んでいったのです。
かつて私が胸を痛め、
心配し続けていた数々の苦難や悔しさは、
今ではすべて、彼が成長するための糧となり、
人格を支える気骨となり、
大きな器を築く土台となったのだと感じています。
安逸で平坦な道は、人を最も怠惰にし、
平凡なまま終わらせてしまいます。
一方で、浮き沈みや試練こそが、
人の心を鍛え、非凡な人間へと成長させるのです。
「既済」の円満は、一瞬で過ぎ去る終着点にすぎません。
「未済」という、まだ終わらない状態こそが、
絶えず生命を育み続ける永遠の活力なのです。
これこそが、「未済卦」が教えてくれる最も素朴で、
そして最も尊い人生の教えであり、
私が学び始めたばかりの身でありながら、
深く心に刻まれ、大きな恩恵を受けた人生の気づきなのです。

4.半生を振り返り、過去を受け入れる
この二つのエッセイは、
一つは世俗から、一つは「天の道」から、
一つは浅く、一つはより深く――
私の認識が少しずつ変化していった過程と、
心境や視野が段階を追って深まっていった歩みを、
ありのままに記録したものです。
『人生は、あまり完璧である必要はない』は、
人生の浮き沈みを経験した末にたどり着いた、穏やかな受容でした。
それは、一人の人間が人生と和解し、
生活を受け入れた姿であり、受け身で、まだ表面的な人生の悟りでした。
一方、『人生は本来、常に「未済」である』は、
「天の道」を浅いながらも学んだことで得た、
揺るぎない心境です。
それは、自然の法則に従って生きようとする自覚であり、
より冷静で、より主体的な、一歩進んだ目覚めなのです。
以前の私は、
いつも「円満」を人生の究極の目標と考え、
「欠けたもの」を
人生における不幸や心残りだと思っていました。
しかし今は、
ほんの少しではありますが、理解できるようになりました。
六十四卦が最後に「未済」に帰着することこそ、
永遠に変わることのない、この世の真理なのです。
いわゆる「円満」とは、結局のところ、
一瞬で過ぎ去ってしまう、はかない安らぎにすぎません。
いつまでも終わることなく学び続け、
生涯を通して成長し続けることこそが、
人生を貫く天地の大道なのです。
人生において最も望ましい姿とは、
何もかも思いどおりになり、
毎年が完璧であることではありません。
「未済」に込められた、
古来より受け継がれてきた深い意味を少しずつ理解し、
人生とは常に「まだ終わっていない」ものだという
本来の姿を穏やかに受け入れ、
希望を抱きながら、情熱を失わずに生きることです。
さまざまな姿が入り混じる人間社会の営みの中で、
円満に執着せず、
欠けたものを悔やまず、
生涯を通して自らを磨き、
生涯を通して成長し、
生涯を通して前へ進み続けることなのです。
欠けたものがあることを知り、
「未済」を穏やかに受け入れ、
残された人生を大切に生きる。
私は、自分の『易経』への学びがまだ浅く、
得られたものもほんの入り口にすぎないことをよく理解しています。
大道の本質には、まだ遠く及びません。
この世には、そもそも究極の終着点などありません。
人生で最も尊いものは、完璧な結末を迎えることではなく、
歩みを止めず、
修養をやめず、
道を悟ろうとすることをやめないことです。
生涯を通して成長し続け、
決して歩みを止めない――。
そのような人生の姿勢こそが、
この人生における最も長く続く、
そして最も確かな「円満」なのだと、私は思います。

張ママが読んだ「易経」とは?
いつにもまして難しかった 今回のブログ。
まず ママ自身も「難解だから漫画版で理解を進めた」
と書いていた「易経」がベースになってるせいもあるんだけど(;^ω^)
そこをまず カンタン解説。(以下 AI解説より)
『易経』とは?
『易経(えききょう)』は、中国最古の古典のひとつで、約3,000年前に成立したとされる書物です。もともとは占いの書として生まれましたが、現在では人生や自然の法則を説いた哲学書として広く読まれています。
『易経』は「六十四卦(ろくじゅうしか)」という64種類の卦で構成されており、それぞれが人生や社会、自然の変化を象徴しています。
今回、ママが注目したのは、その最後に置かれた「未済(みさい)」という卦です。
「未済」とは、「まだ完成していない」「まだ終わっていない」という意味。
『易経』は、あえて「完成」を意味する「既済」で終わらず、「未済」で締めくくられています。
そのことから、ママは
「人生は完璧に完成するものではなく、未完成のまま学び、成長し続けることこそが本来の姿なのだ」
という人生観にたどり着いた、と今回のブログで語っています。
張ママが今回の文章で、伝えたかったこと
一言で簡単にまとめると、今回のママの文章は
「人生は“完成”を目指すものではなく、
“未完成のまま成長し続けるもの”であると、『易経』を通して気づいた」
という話を伝えています(^-^;
ポイントは 次の5つ。
① 人生は「未済」が本来の姿
『易経』の最後が「既済(完成)」ではなく
「未済(未完成)」で終わることに、大きな意味があると気づいた。
つまり、
人生は最初から完璧になるようにはできていない。
ということです。
② 不完全なのは失敗ではない
人生に欠けた部分や思いどおりにならないことがあるのは、
自分の能力不足でも
運命の意地悪でもなく
天地の自然な法則なのだ、と考えが変わった。
③ 完璧への執着を手放した
以前は
仕事も完璧に
人間関係も完璧に
息子の人生も完璧に
と思っていた。
しかし今は
「完璧を求めること自体が苦しみを生む」
と理解するようになった。
④ 息子への見方も変わった
一番大きな変化はここで、以前は
「苦労しない人生を送ってほしい」と願っていた。
しかし今は
苦労や挫折こそが、息子を成長させ、人間としての器を育てた。
と思えるようになった。
⑤ 一生「未済」でいい
だから人生の目標は
「完璧なゴール」
ではなく、
一生学び続け、一生成長し続けること。
それこそが本当の「円満」なのだ、と締めくくっています。
「人生の価値は、完璧に終わることではなく、
未完成のまま歩み続けることにある」
これが、ママが『易経』を読んでたどり着いた、一番伝えたかったメッセージ。
どんどん 悟りの境地に達しているママが 本当にスゴイと思う。
あの事件から5年。
ここまで絶え間なく、前進&進化し続けてるハンハン&ママには、本当に頭が下がります😢
ファンとの交流アプリJOOX Bubbleの話
VPENを利用してエリアを香港につないで AppleIDを香港に変えたり、色々ハードルが高そうなんだけど…
7/29のサービス開始に向けて、いろいろトライアルしてる海哲さんが多いみたい。
私はというと、VPENにトラウマあり、これが必要となると、正直ちょっと手を出しにくい…(^^;)
しばし静観します。
ではでは今日はこのへんで。ここまでご覧くださりありがとうございましたww
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