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追加席の二次販売決定!チャンジャーハンの「即完ファンミ(クアラルンプール)」、明日4/23「再発売」!

5月3日に、マレーシア・クアラルンプールで開催される、ハンハンのファンミーティング。
あの「1分で完売」したファンミチケットが…明日、二次販売されるとのこと!
(飛行機まで手配済みだった海哲のみんなの声が事務所に届いたみたい…😢)

今日、公式サイトで発表された内容から詳しくご紹介します。

※ママブログの最新版の和訳もあり。よかったら読んでみてくださいww

目次

チャンジャーハンの5/3ファンミ、明日「追加席の二次販売」決定!

ではでは さっそく。今日、公式サイトに掲示された内容から。全文和訳でご紹介します。

チャンジャーハン2026クアラルンプールファンミ「二次販売のお知らせ」

【二次販売のお知らせ】

張哲瀚2026「鏡」FANMEETING―クアラルンプール公演に、
多くのご声援をいただきありがとうございます!

初回販売後、チケットを確保できなかった方々から
多数のご要望をいただきました。

緊急で各方面と調整を行い、
少量の関係者席(追加チケット)を確保できたため、
第2回販売(二次販売)を実施することを決定しました。

⏰ 販売開始:4月23日 11:05(日本時間お昼 12時5分)
🎫 販売プラットフォーム:リンク
 >>fantopiaチケットサイト

①今回が最後の販売となり、完売後の追加はありません;

②同一アカウントにつき1枚まで購入可能、複数購入は無効となります;

③事前に本人認証を完了し、
販売開始後はページを更新して購入してください

(ページから離れず待機してください)※

④すべてのチケットは返品・交換不可のため、スケジュールをご確認のうえご購入ください。

すべての応援に感謝いたします。チケット争奪戦がうまくいきますように!
会場でお会いしましょう!

原文サイトはこちら

関係者席の調整ということは 今回の再発売分は 相当座席が少ないと思われるので…
前回以上の激戦になりそうです… Σ(゚∀゚ノ)ノキャー

もしトライされる方がいらしたら、
今回大事なのは、上の③で書かれていた部分が「とても重要」なので ちょこっと解説すると… 
 

🌟まず、発売時間の開始前に、チケットサイトにログインしておくこと。
販売時間になった瞬間に、「ページ更新」するのがポイントです。

(pcの場合は、画面の上部に出る「更新マーク」を押す、
スマホの場合は、下にスワイプすると「ページ更新できます」。)

🌟あと、ネット速度の速い環境でアクセスするのもポイント。
(スピード勝負なので、スマホよりもPC推奨。
サーバー環境+入力スピードからしても、スマホよりPCのほうが有利です)

みなさまの幸運をお祈りしております<(_ _)>

チャンジャーハンママがブログ更新!自身の青春期を振り返る「R先生」

そしてここからは ママのブログを。

前回紹介した4/10の投稿のあと、実は4/18にすでに更新されてたのだけど、昨日まで気づかず(・・;)
遅くなりましたが 今日、全文和訳でご紹介します(^-^;

※今回のブログには、ハンハンは出てきません。
※ママが16歳のころ、国策で、都会から農村に働きにいかされた際の体験談です。
(とても興味深い話でした)よかったら読んでみてください(;^ω^)

張ママブログ4/18投稿「r先生」(全文和訳)

r先生

皆さんはこの題名をご覧になると、
どうしても疑問に思われ、
事情がよく分からないかもしれません。

実は「r先生」というこの特別な呼び方は、
私が農村で教えていた2年間の時間に、
静かに寄り添ってくれていたものでした。

―16歳のあの年、
私は故郷に戻って下放(※)され、
まずは1年間、土に向き合う農作業の日々を耐え抜きました。
その後、教壇に立ち、
2年間の民営教師としての生活を始めました。

※下放:主に 文化大革命(1966年〜76年)の時期に行われた政策で、都市の若者(学生など)を農村や地方へ送り、労働や生活をさせること。

その下放された青春の日々の中で
「r先生」という呼び名は、最も鮮明で特別な印となりました。

半生を経た今でも、
この三文字を口にすると、
心の奥に押し込められていた、
若く未熟だった頃の出来事がゆっくりと広がっていきます。

当時の私は、遠くへの憧れと、
自立した人生への願いを胸に秘め、
その初々しい期待を抱えたまま、
一人で故郷の地へと足を踏み入れ、
未知の成長の旅を始めました。

出発前夜、私は質素な荷物を丁寧にまとめました。

その簡素な包みの中には、
これからの道への好奇心と期待がいっぱいに詰まっていました。

そしてその時の私は、これから先にはすべて、
新しい成長と風景が待っているのだと、心から信じていました。

ただ当時の私は、まだ年若く、
世間のこともよく分からない、
純粋な少女であり、
時代の大きな流れに押されるまま、この故郷の地にとどまることになりました。

3年間にわたる下放の時間
――1年間は畑での農作業、2年間は農村での教職。

この短くも重みのある歳月は、
私の青春の中で、
最も深く心に刻まれた記憶となりました。

重労働、粗末な住まい、
いつまでも消えない、冷たく陰鬱な孤独感、
そして、誰にも打ち明けられない寂しさ
――それらが幾重にも重なり、
まだ物事をよく知らない、一人の少女の身にのしかかっていました。

数えきれないほどの昼と夜を、
私は頼る人もなく孤独に過ごし、
心の内を置き場もなく抱えたまま、
ただ一人で隅に身をひそめて、
声を立てずに涙を流し、
すべてのつらさや寂しさをひっそりと胸の奥へ飲み込んでいました。

16歳――それはまだ世の荒波を知らず、
あどけなさの残る年頃でした。

故郷の村に戻った私は、二番目の叔父の家に身を寄せ、
従姉と狭い小さな部屋で身を寄せ合いながら、同じ木のベッドで眠っていました。

こうして、何の心配もなく過ごしていた少女時代は
突然終わりを告げ、
私はぬかるんだ畑へと飛び込み、
心身のすべてを使い果たすような農作業を、
来る日も来る日も繰り返す1年間を過ごすことになったのです。

農村での農作業は、
まさに実際に身にこたえる厳しさで、
厳しく過酷な重労働であり、
私が年若いからといって
少しも手加減されることはありませんでした。

春の田植えでは、私は腰をかがめて、
ひんやりとした水田の中に入り、
冷えがズボンの裾から全身へと広がっていきました。

両脚はぬかるみに沈み込んで、
抜け出すのも難しく、
腰や背中は常に張り詰めたままで、
だるさやしびれ、張るような痛みが全身を包み込んでいました。

真夏の「双抢(収穫と田植えの繁忙期)」の頃には、
広い野原には遮るものが一つもなく、
焼けつくような熱気と砂ぼこりが、
まともに押し寄せてきます。

肌は強い日差しに焼かれて熱を帯び、
皮がむけ、汗と泥が混ざって、
顔じゅうにこびりつき、
衣服は濡れては乾き、
乾いてはまた濡れることの繰り返しでした。

私は手足も不器用で、
作業をするのにもひときわ苦労し、
全力を尽くしても、
長年働いてきた村の人々には到底かないませんでした。

それでも幸いなことに、
村の人々は素朴で温かく、いつも手を差し伸べて助けてくれました。

しかし、その優しさも、
身体の芯にまで染みついた疲労を取り除くことはできず、
また農作業に慣れていないことから生じる不安や、
労働の厳しさへの恐れを、
心の奥から消し去ることもできませんでした。

疲れきった身体を支えるために、
私はよく肘で、脚に体重を預けて踏ん張っていました。

そうした動作を、来る日も来る日も繰り返すうちに、
肘や太ももの皮膚は何度も擦りむけて血がにじみ、
かさぶたになり、古い傷が癒えないうちに、
また新しい傷ができていきました。

びっしりと重なるその傷跡は、
あの農作業の日々を最も強く物語る痕となりました。

中でも最もつらかったのは、
女の子としての生理の時期でした。

もともと体が弱り、
冷えにも敏感になる時期であるにもかかわらず、
私はなおもひんやりとした水田の中にひざまずき、
草取りや作業を続けなければなりませんでした。

田んぼの底の砂や石が、膝の傷口を何度もこすり、
濁った泥水が傷に染み込み、
胸に突き刺さるような痛みが走りましたが、
私はただ黙って耐え、
一人ですべての苦しさを背負うしかありませんでした。

肥料をまく際には、
牛の糞を自分の手でつかんで撒くこともありました。

生臭い強いにおいが押し寄せ、
吐き気が込み上げてきましたが、
私は歯を食いしばってこらえ、
村の人々のやり方を見習いながら、
少しずつこの農作業の現実的な厳しさに慣れていったのです。

秋になり稲が実る頃になると、
それは一年の農作業の中でも、
最も心身をすり減らされる時期でした。

刈り取った後の稲束は、
一束ずつ担いで村まで運び、脱穀しなければなりません。

田んぼと村の間には、数里にも及ぶ土の道があり、
担ぐ稲は重く、しかも地面に落としてぶつけることも許されませんでした

――ひとたび手を滑らせれば、
籾がこぼれ落ち、何日もかけた苦労が水の泡になってしまうのです。

私は歯を食いしばって必死に耐え、
体力が尽きかけると、肩を何度も入れ替えながら運びました。

まだ柔らかい肩は、
粗い天秤棒に擦られて赤く腫れ、
皮が破れ、血がにじみ、
一歩進むたびに、皮膚が引き裂かれるような痛みが伴いました。

村の人々はすでに
こうした重労働に慣れており、
彼らにとっては
日常のことにすぎませんでしたが、
私は幼い頃から重い作業をしたことがなく、
華奢な身体では、
とても耐えきれるものではありませんでした。

春に種をまき、夏に耕し、秋に収穫し、冬に蓄える
――そうした日々の繰り返しの労働は、
私の中の甘えや、か弱さを削り取り、
厳しい歳月の中で少しずつ落ち着いた性格を育てていきました。

そして私は農作業の大変さを理解し、
同時に村の人々の粘り強さと、
素朴さにも気づくようになりました。

身体の苦しさはまだ歯を食いしばって
耐えることができましたが、
粗末な住まいは、
昼夜を問わず私の心を、じわじわとすり減らしていきました。

最初に、二番目の叔父の家に住んだとき、
隣はすぐ豚小屋で、一日中騒がしい音と、
ほのかな濁ったにおいが漂い続けていました。

中でも最も困らされたのは、
布団いっぱいに広がるノミでした。
――夜になると全身を刺されて、
赤い発疹だらけになり、
耐えがたいほどのかゆみに襲われ、
一晩中寝返りを打って
眠ることができませんでした。

布団には引っかいてできた血の跡があちこちに残り、
何度も洗い、毎日のように天日に干しても、
この悩みを完全に取り除くことはできませんでした。

このような状況から抜け出すために、
私は引っ越す決心をし、
村に長い間空き家になっていた、古い家へ移り住むことにしました。

その家は広くてひっそりとしており、
玄関を入ると広い前室があり、
入口には先祖の遺影が置かれ、左右にはそれぞれ二部屋ずつありました。

長年誰も住んでいなかったため、ひときわ静まり返っていました。

村では以前から、
この古い家には「幽霊が出る」という噂が広まっており、
皆が恐れて近づこうとしませんでした。

しかし、ノミへの嫌悪は、
ついにはその恐れを上回りました。
私は幽霊よりも、ノミのほうがよほど怖かったのです。

幽霊はしょせん形のない噂にすぎませんが、
あのどこにでも入り込み、
昼夜を問わず人を刺して苦しめるノミのほうが、よほど恐ろしい存在でした。

汚く騒がしい環境から逃れられるのであれば、
たとえ一人で冷え冷えとした空き家に住むことになっても、
私はそれで構わないと思いました。

私は簡単に一部屋を整え、
壁に紙を貼り、布団を洗い、自分の木箱を積み重ねて小さな机を作りました。

そうして、がらんとした古い家の中に、
自分だけの静かで清潔な小さな空間を作り上げたのです。

引っ越してきた最初の夜は、
夜の闇が濃く、古びた木造の家の中は、
風の音まで聞こえるほど静まり返っていました。

時折かすかな物音がし、
まるで子どもが走り回るような足音さえ聞こえてきました。

私はベッドの隅で身を縮め、
体をこわばらせながら、
心の中に孤独と恐怖が一気に広がっていきました。

やがて、かすかに床板の上から猫の鳴き声が聞こえてきて、
ようやく少し落ち着くことができました。
――どうやら床の上には野良猫が潜んでいたようで、

あの不思議な音も、ただ猫の動きによるものだったのです。

やがて私は、少しずつその古い家の静けさにも慣れ、
その静かな空間を好きになるようになりました。

夜になると、私はよくハーモニカを吹いて
孤独を紛らわせていました。

やわらかく響くその音色に引き寄せられるように、
村の同年代の娘たちがやって来て、
そっと窓の下に立ち、静かに耳を傾けてくれました。

ひんやりとした夜の中にも、
そうしたひとときの寄り添いが、
わずかな温もりをもたらしてくれたのです。

しかし、農作業の重さや家族への思いは、
なおも心の中に重くのしかかっていました。

住まいの環境は改善されたとはいえ、
私は依然として農作業に対する不安を抱えていました。
そして何より、
私はあまりにも強く家を恋しく思っていたのです。

両親のこと、弟や妹たちのことを思う、
その気持ちは、骨の髄にまでしみ込むように深く、
孤独の中で膨れ上がり、
昼も夜も心に広がり続け、
日々の暮らしの中に刻み込まれて、どうしても振り払うことができませんでした。

その思いはしばしば、
夜更けにひそかに涙を流させるほどのものでした……

それは知識が軽んじられていた時代でした。

農村の環境は厳しく、教育条件も乏しく、
教師は極端に不足していました。

村の中学校(当時の地域運営の学校)では
授業を担当する教師が急ぎ必要とされており、
私は幸運にもその一人として選ばれ、
農作業の生活に別れを告げ、教壇に立つことになりました。

一年間、土と向き合う苦しい日々を乗り越え、
ようやく重い農作業から解放されましたが、
心の中の不安は少しも消えることはありませんでした

――初めて教壇に立ったときの戸惑い、
教育の仕事に対する不慣れさは、
私に期待と同時に不安も抱かせ、
この得がたい機会をいっそう大切に思わせるものでした。

こうして私は正式に教壇に立ち、
村の中学教師として働き始め、2年間教えることになりました。

学校の手配で、
私は上海から来た女性の知識青年(下放された若者)と、
同じ部屋で暮らすことになり、
寂しかった日々にも、その存在がいくらかの温もりをもたらしてくれました。

農村では教師が不足していたため、
私は一人で複数の教科を受け持つことになりました。

まったく教育経験のなかった私は、
不安でいっぱいでしたが、
わずかな空き時間も惜しんで独学に励み、
自分の知識を補いながら、
この機会に応えられなかったり、
子どもたちの将来を損なってしまったりすることのないよう、必死に努力していました。

私は少しずつ授業の準備や教え方を学び、
徐々に教壇でのリズムにも慣れていきました。

授業では子どもたちに平面幾何を教え
「円の直径を d とすると、半径 r はその半分、
つまり r=d÷2 になります」と丁寧に説明していました。

田舎の子どもたちは学校に通い始めるのが遅く、
英字に触れる機会もほとんどなかったため、
「r」という読み方にとても興味を持ちました。

授業中にも読み、授業が終わってからも口にし、
歩いているときや遊んでいるときにも、ずっと口ずさんでいました。

やがて、私の姿を見ると子どもたちは一斉に
「r先生、r先生」と呼ぶようになりました。

当時の私はまだ17歳で、
考え方も素直で気恥ずかしさも強く、
自分とそれほど年の変わらない子どもたちにからかわれるたびに、
内心では恥ずかしく思いながらも、
どうすることもできませんでした。

――むしろ恥ずかしがれば恥ずかしがるほど、
子どもたちはいっそう面白がって呼び続けました。

結局のところ、
私は笑ってその呼び名を受け入れるしかなくなり、
やがて「r先生」という呼び名は次第に広まり、
保護者や村の人々までもがそう呼ぶようになり、
私自身もその呼び方に自然と慣れていきました。

クラスには基礎が十分でない子どもたちも何人かおり、
私は彼らの学習を補い、
成績を上げてあげたいと強く思い、進んで家庭訪問をしたいと申し出ました。

ところが、その言葉を口にした瞬間、
子どもたちは一斉に慌てた様子を見せ、顔をこわばらせました。

私が家に行って
親に言いつけるのではないかと思ったのでしょう。

「r先生、もうr先生って呼びませんから、
家庭訪問はやめてください」と口々に頼んできました。

その困ったようで愛らしい様子を見て、
私は思わず心が和らぎ、やさしく声をかけました。

「私はあなたたちのr先生ですよ。
家庭訪問は告げ口をするためではなく、
あなたたちに補習をして、もっとよく理解できるようにするためです。
この呼び方とは関係ありませんから、
これまで通り呼んでくれて大丈夫ですよ」

私の言葉を聞いて、子どもたちの緊張は少しずつほどけ、
やがてはにかんだような笑顔を見せてくれました。

その後の日々、私は同じ部屋で暮らしていた楊先生と
よく一緒に、夜の帳に紛れて、
五、六里ほど離れた唐家村まで家庭訪問に出かけていました。

道中は見渡す限りの野原が広がり、
村も家屋もなく、目印となるものもありません。

ただ月明かりだけが頼りで、
あたりは風の音さえ聞こえるほど静まり返っていました。

この地域は平原地帯で、
村には一つの暗黙の習わしがありました。

それは、どの村でも入口には必ず墓地があり、
そこに村の人々の亡くなった家族が葬られているというものです。

下放されたばかりの頃は、
墓を見るだけで恐れを感じ、
昼間に埋葬の場面に出くわすと、
夜には必ず悪夢を見て、なかなか眠ることができませんでした。

しかし、時が経ち、そうした光景にも慣れてくると、
この「葬る」という行為の持つ”厳かさ”を少しずつ理解できるようになり、
墓地の前を通っても、もはや心に恐れを感じることはなくなりました。

唐家村へ家庭訪問に行くには、
必ず村の入口の墓地を通らなければなりませんでしたが、
何度も往復するうちに、私もすっかり慣れていきました。

そこに並ぶ墓は大きさもほぼ同じで、
整然と並んでおり、
一つひとつに村の人々の思いが込められていました。

その日、家庭訪問に向かったのはちょうど黄昏時で、
まだ空には明るさが残っており、
私たちは落ち着いて墓地を通り過ぎ、
特に気に留めることもありませんでした。

補習を終えて帰路につく頃には、
すでに夜の十時前後になっていました。

夜空には一輪の澄んだ月がかかり、
その光が平原に降り注ぎ、足元のあぜ道を照らしていました。

私は楊先生と前後になって、
生産隊(村)の事務所のある方へ向かって歩いていましたが、

しばらく進むうちに、心の奥に違和感がじわじわと広がってきました。
――本来なら道中に見えるはずの墓地が、
跡形もなく消えてしまっていたのです。

疑問を抱えたまま歩き続けていると、
突然、形も大きさもさまざまで、
まるで城のようにも見える墓碑が目の前に現れました。

その瞬間、私の心臓は激しく打ち始め、
手のひらには冷たい汗がにじみました。

私は恐怖のあまり体がこわばり、
楊先生と一言も交わすことも、
目を合わせることさえできませんでした。

ただ、彼女がこの異変に気づいていないことを願い、
少しでも心の支えが欲しいと密かに思っていました。

田んぼの中の小道は狭く、並んで歩くこともできません。

前を歩けば未知の恐怖に一人で向き合うことになり、
後ろに回れば背後の広がる暗闇と墓におびえなければなりません。

進むにも退くにも身動きが取れず、
ただ不安だけが募っていきました。

道の脇には、一定の間隔で大小さまざまな水たまりがあり、
カエルが「ぽちゃん、ぽちゃん」と水に飛び込む音が、
静まり返った夜の中でひときわ鋭く響きました。

その一つ一つの音に、私は胸が締めつけられる思いでした。

恐怖に包まれ、
どうしてよいか分からなくなっていたそのとき、
遠くから突然、豚の鳴き声が聞こえてきました

――それは人の暮らしの気配であり、
暗闇の中に差し込む唯一のかすかな光のように、
私たちに前へ進む勇気を与えてくれました。

私たちは道も選ばず、ひんやりとした水田を踏みしめながら、
その鳴き声のする方へと走り出しました。

ただ一刻も早く、この不気味な場所から逃れたい一心だったのです。

時が経った今でも、
あの夜の異変についてははっきりとは分かっていません。

ですが私は一貫して無神論者であり、
不気味な噂を信じることはありません。

ただ何度も自分に言い聞かせています
――あれは夜があまりにも暗く、田んぼの道が似通っていたために道に迷い、見知らぬ場所に入り込んでしまっただけのこと、ただの驚いたにすぎなかったのだと。

それからほどなくして、
知識青年の帰還政策が打ち出され、
同じ部屋で暮らしていた上海出身の女性の知識青年は、
下放の年数が十分であったため、
推薦入学の枠を得て農村を離れることになりました。

それは彼女の人生を大きく変える
素晴らしい機会であり、
私は心から彼女のことを喜びました。

しかしその一方で、振り向いた瞬間、
大きな孤独が私を包み込みました
――広い学校には、再び私一人だけが残されたのです。

他の教師たちはそれぞれ家庭があり、
授業が終われば家に帰っていきます。

広々とした校内には、私一人だけが残り、
人気(ひとけ)さえ感じられませんでした。

彼女を見送ったその日、
私は一人で住んでいる二階建ての小さな建物へ戻りました。

広いホールはがらんとしており、
その静けさは息が詰まるほどでした。

孤独と恐怖が同時に押し寄せてきて、
私はこのままその感情に飲み込まれてはいけないと思い、
何かをして気を紛らわせようとしました。

そこで小さな腰掛けを持ち出し、
大きな洗い桶のそばに座り、
衣類をすべて取り出して洗い始めました。

井戸の水は澄んでいましたが、
骨にしみるほど冷たく、
手を浸すと、その冷えが指先から心の奥まで広がり、
孤独や恐怖と絡み合っていきました。

涙が静かに頬を伝い落ちました。
声に出して訴えることもできず、
ただ流れる涙だけが、心にあふれる孤独、無力感、
そして恐れを語っていました
――その瞬間、私は本当に、自分がこの世界に見放されたかのように感じたのです。

夜になると、私は電気を消すことができず、
小さなベッドに横たわりながら、じっと蚊帳の天井を見つめていました。

古びた木の天井の下、
建物全体はしんと静まり返り、
自分の重い心臓の鼓動さえ
はっきりと聞こえるほどでした。

そばには誰もおらず、
寄り添ってくれる人も、慰めてくれる人もいない
――その頼るもののない孤独が、再び胸に押し寄せてきました。

そのとき、一滴の暗い赤色の水滴が、
蚊帳の上からぽたりと落ちてきました。

真っ暗な夜の中で、
それはひときわ目に焼きつくように見えました。

私は瞬時に全身が総毛立ち、
体が固まり、
心臓の鼓動さえ止まったかのように感じ、
まるで魂が抜け出したかのような感覚に襲われました。

私は身動き一つせず横たわったまま、
その次第に乾いていく跡をじっと見つめ続け、
必死に自分に言い聞かせました
――きっと屋根裏の猫がネズミを捕まえて、その血が落ちてきただけなのだ、と。

何度も何度も心の中で繰り返し唱えました。

それは恐怖を追い払うためであると同時に、
自分自身を支え、心の奥の確信を守るためでもありました。

私はもともと無神論を強く信じており、
この世のあらゆる異常な出来事にも、
必ず合理的な説明があると考えています。

たとえこの瞬間、恐怖に包まれていたとしても、
無理にでも自分を落ち着かせ、
その考えによって、
心の底に広がる冷たさや不安を振り払い、
理性を保とうとしていました。

果てしない孤独、深夜の恐怖、
来る日も来る日も続く過酷な労働、
そして行き場のない思い
――それらが少しずつ心の奥に積み重なり、
息が詰まるほど私を押しつぶしていきました。

数えきれないほどの夜、
私は恐怖に驚いて目を覚まし、
真っ暗な部屋の中で一人震えていました。

ひとりでいるときには、
どんなにかすかな物音でさえ、
胸を締めつけるような不安に襲われました。

私はますます家族のもとへ戻りたいと願うようになり、
頼れる誰かのそばにいたいと
強く思うようになりました。

もう一人であらゆる苦しみを背負うことも、
すべての困難に向き合うこともしたくない

――この土地を離れることが、
私が踏みとどまり続けるための唯一の支えとなっていったのです。

その思いは心の中で根を張り、育ち、
私は密かに決意しました。

必ずこの苦しみと孤独に満ちた故郷を離れ、
心身を安らかにできる場所を求め、
自分の価値を実現できる遠い地へ向かおうと。

幸いにも、知識青年の帰還政策は、
すでに大きな流れとなっており、
私も無事に就職の割り当てを得ることができました。

こうして私は、
汗とつらさと恐怖と孤独に満ちた「下放の日々」にようやく別れを告げ、
自分の未熟さと葛藤が刻み込まれた、この土地とも別れることになりました。

私はその歳月の中で鍛えられた強さと勇気を胸に、
未知の遠くへと歩み出し、
自分自身の新しい人生へと向かっていったのです。

今振り返ると、あの時代、
私のいちばん輝くはずだった青春は、
まだ熟していない青い果実のようなものでした。

無垢で、か弱く、
それでも貧しく荒れた大地へと投げ出され、
風雨にさらされながら、静かに成長のかたちを育んでいったのです。

三年間の下放の歳月――
1年の農作業、そして2年間の教職。

それは私にとって、運命が与えた深い鍛錬であると同時に、
孤独や恐怖と一人で向き合い続けた旅でもありました。

十六歳の私は、一人で家を離れ、
この土地に根を下ろし、か弱さを脱ぎ捨てて、
労働の厳しさ、孤独の侵食、
そして、未知の恐怖と真正面から向き合いました。

夜ごとに押し寄せる不安、
ひとりでいるときの怯え、広大な野の中で感じる恐怖
――それらは何度も、
私を崩れ落ちそうなところまで追い詰めましたが、
私には退く道はなく、
ただ必死に耐え続けるしかありませんでした。

家族の支えもなく、頼る人もいない中で、
私は忍耐することを覚え、
責任を背負うことを覚え、
孤独とともに生きること、
そして恐怖に立ち向かうことを学びました。

この苦しい歳月は、私の心身を鍛え、
性格を落ち着かせ、
人生の厳しさを早くから理解させるとともに、
その中で少しずつ成長し、強くなっていく力を与えてくれたのです。

その中でただ一つ、
「r先生」という呼び名だけは、
この苦しい歳月の中に差し込む最も温かな光であり、
二年間の農村での教職生活において、何よりも大切な記憶となりました。

それは同時に、
私の二年間の教職の日々を讃えるものでもあります。

農村を離れるその日、村の子どもたちは私のあとをついてきて
「r先生、r先生」と何度も呼びかけてくれました。

その声は風の中にやさしく溶け込みながら、
私の心の奥深くに刻み込まれました。

それから幾十年という歳月が流れ、
今ではもう誰も、私をそのように呼ぶことはありませんが、
この呼び名は今でも、
私の青春の中で最もやさしい記憶として残り続けています。

そこには、あの頃の温もりと感動が、静かに息づいているのです。

若い頃の苦しさや、広い野の中で感じた恐怖、
そして労働の厳しさは、やがて歳月とともに薄れていきます。

しかし、一人で耐え抜いた苦難や、
心に抱き続けた思い、そしてその中で得た成長は、
決して消えることなく記憶の中に残り続けます。

三年間の下放の日々を振り返ると、
汗と傷が交錯し、孤独と郷愁が寄り添っていたことを思い出します。

頼るもののない苦しさや、
故郷にいながらも遠く家族を思い続けた切ない気持ちは、
この歳月が与えてくれた、
かけがえのない贈り物であり、
時が流れても決して忘れることはできません。

この深く心に刻まれた経験は、
まるで烈火で金を鍛えるかのように、
私に前へ進む勇気と強さを与えてくれました。

かつては乗り越えられないと思っていた壁も、
耐え抜いてきた苦しみも、
やがては人生を支える確かな力となり、
私をさらに遠くへと導き、
自分の望む姿へと歩ませてくれているのです。

半生を経て、数十年ぶりに、
かつて私の青春と苦労を支えたこの土地を再び訪れると、
村はすでに見違えるほどの変化を遂げていました。

どの村にもコンクリートの道が通り、
家々には新しい住宅が建ち並び、
村の景観は整い、住環境も大きく向上しています。

農業は機械化が進み、
かつてのような非効率なやり方は完全に姿を消しました。

若者の多くは都市へ働きに出ており、
農作業は空いた時間に行われ、
新しい農村づくりも着実に進み、
都市と農村の一体化も大きな成果を上げています。

かつて汗と苦労に満ちていたこの土地は、
すでに生まれ変わり、新たな息吹を得ています。

時代の流れはやさしく大地を潤し、
かつての貧しさや苦しみは、
すべて歳月がもたらした誇りへと変わっていました。

私は深く感じます
――これまでのあらゆる苦難は決して無駄ではなく、
時代の歩みとともに、
新たな希望と活力としてこの土地に息づいています。

そしてそれは同時に、今の暮らしをより大切に思わせてくれ、
苦しみの中で成長したあの日々を忘れずにいようという思いを、
いっそう強くしてくれるのです。

原文サイトはこちら

今まで語られることがなかった 16歳のときのママが体験した「3年」の話。
すでに こんなに幼いときから、ひとりで、過酷な体験をされていたことに驚きました。
(ママに限らず、この時代に都市にいた若者が「下放」を経験していたようです)

ママ、そしてハンハンの芯の強さは、こういう経験を経て身に付いたものなのかも…

最近ママのブログは「自伝」的な内容が多くて、とても興味深いです。
また更新されたら 随時ご紹介しますネ(^-^;

宝登源「511スペシャル」パッケージ 4月23日発売!

最後は、昨日の記事で紹介した「クラゲキーホルダー付き」のスペシャルパッケージ。
明日発売だそうですよ♡

宝登源・詩韻茶舎 
2026年「愛の贈り物 511」


ギフトボックス内容👇
・357g 生プーアル茶 ×1
・357g 熟プーアル茶 ×1
・クラゲぬいぐるみキーホルダー ×4
4月24日 正午12時05分 販売開始 (日本時間13時05分)
WeChatミニプログラムにて販売開始🐱
予約価格 💰511元 (約10,000〜11,000円前後)

※「VX小程序」=WeChat(微信)のミニプログラム販売

ウイチャット通販は 日本からは買いにくいので 代行さんで探すのが無難かもしれません(^-^;

ではでは今日はこのへんで。ここまでご覧くださりありがとうございましたww

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