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チャンジャーハン公式インスタで「新疆から感動のおすそわけ」(&張ママブログの和訳も♪)

ハンハンが今日夕方5時ごろ、インスタを更新!
なんともステキな絶景写真を公開してくれましたヾ(*´∀`*)ノ

加えて、定期的にブログを更新しているハンハンのママ。
一昨日(9月4日)に、とても素敵なブログ更新あり。全文和訳でご紹介しますww

目次

チャンジャーハン、公式インスタで「新疆での絶景写真」公開!

つい最近 北京から新疆に飛んだハンハン。
今日は その新疆にあると思われる 広大なひまわり畑で撮影した写真を公開してくれました♡

チャンジャーハン公式インスタ9/6投稿「言葉では言い表すのが難しい、そんな感覚」

投稿コメント 目前难以用言语形容的一种感觉🌻
和訳 今のところ、言葉では言い表すのが難しい、そんな感覚です🌻

公開された写真は 全9枚!

投稿元リンク先はこちら

ほんとに驚くほど広大な ひまわり畑!
写真だけでも すごいのに こんな現場にいたら 感動するに違いない…(/ω\)ww

ちなみに 新疆のひまわり畑。
検索してみたら 結構有名みたいで いろいろでてきましたよ♪(〃▽〃)ポッ

新疆ウイグル自治区には、地平線まで続く圧倒的なスケールの広大なひまわり畑が各地に存在します。
主な見どころとスポットブルチン県(布爾津県): ゴビ砂漠や草原、雪山を背景に、5万ムー(約3330ヘクタール以上)もの黄金色のひまわり海が地平線に沿って広がります。G217国道沿いでは道路の両側に花畑が続き、夏の美しい風景を楽しめます。詳細な情報はTrip.comのブルチン観光ガイドで確認できます。byGoogle

トリップドットコム ブルチン|5万ムーの黄金のひまわり海に突入!新疆の夏の神レベルのロマンス
リンク先はこちら

ユーチューブに動画もあり。

同じ場所かどうかわからないけど(;^ω^) とにかくすごい♪

ハンハンのドキュメンタリーに 出てくるのかな? 楽しみですネ(^ー^* )フフ♪

チャンジャーハンのママがブログ更新「于仰望中生长,在追光里成为自己~谈崇拜的力量」(全文和訳)

そして、こちらは、ハンハンママの最新作!
「于仰望中生长,在追光里成为自己 —— 谈崇拜的力量」を 和訳でご紹介します♪

※今回も、ハンハンの話はほとんど出てこないのだけど、
個人的に、ここ最近のブログの中で一番 素敵な文章でした(読後感が爽やかです😅)

張ママブログ9/4投稿「仰ぎ見る中で成長し、光を追う中で自分自身になる―憧れの力について」全文和訳

于仰望中生长,在追光里成为自己 —— 谈崇拜的力量
仰ぎ見る中で成長し、光を追う中で自分自身になる――憧れの力について

何人かの若い友人たちと気ままに話をしていたとき、
「憧れ」が話題になりました。

それぞれに異なる考えがあり、
ひとしきり議論することになりました。

「これまでの人生で、
誰かに憧れたことは一度もない」
という人もいれば、
ある歌手に心を奪われたことがある人もいました。

また、詩人や偉人から受けた感動に、
今も感謝している人もいました。

話題は次第に広がり、
私たちは考え始めました。

人は誰かに憧れることに、
いったいどのような意味があるのでしょうか。

ある人たちは、他人を仰ぎ見るよりも、
自分自身のよさを認めるほうがよいと考えています。

誰かに憧れることは、自分自身をすり減らし、
自信を失わせやすいというのです。

それはまるで、星空を仰ぎ見ても、
その星を手に取ることはできないようなものです。
他人と比較するうちに劣等感に陥り、
自分自身の姿が見えなくなりやすいのです。

一方で、誰かに憧れることは、
自分が進むべき方向を見つけることにつながる
と考える人たちもいます。

他人の長所に気づき、
その人に近づこうと学ぶことで、
向上していくための原動力を得られるというのです。
皆がそれぞれ自分の意見を主張し、
誰も相手を納得させることはできませんでした。

私にとって憧れとは、
素朴な思いであり、
自分をより高いところへと導いてくれる
心のよりどころです。

若い頃の私は本を読むことが好きで、
本のページを通して、
数えきれないほど多くの世界を見ていました。

当時は携帯電話もインターネットもなく、
テレビもまだ広く普及していなかったため、
本はほとんど私にとって
唯一の心の慰めでした。

この読書への愛は、
時代が私に与えてくれたものであり、
私が生まれつき
人並み以上に自律心の強い人間だったからではありません。

そして、本当の意味で
私を執筆の道へと導いてくださったのは、
私の人生を照らしてくれた二人の師でした。

一人は詩人、もう一人は随筆家です。

20代前半の頃、私は公安機関で
戸籍を担当する警察官として働いていました。

地元の文化館には、
江西省でよく知られた詩人がいました。

その家庭は経済的に苦しく、
妻には仕事がなく、
養い、世話をしなければならない子どもが5人いました。

一家の暮らしはすべて、
彼のわずかな給料によって支えられており、
妻と子どもたちはまだ「農村戸籍」のままでした。

あるとき彼は、家族の「農転非」を申請し、
家族を都市戸籍へ移すことを希望しました。

※「農転非(のうてんひ)」とは、当時の中国における農村戸籍(農業戸籍)を都市戸籍(非農業戸籍)へ変更する制度・手続きのことです。

私と先輩の女性同僚は、確認調査のため、
わざわざ彼の故郷まで足を運びました。

何度も奔走した末、
ようやく一家の農転非の戸籍手続きを
無事に済ませることができました。

そして、まさにこのときのご縁によって、
私はこの詩人のありのままの暮らしを
身近に知ることになったのです。

それまでの私は、ただ紙面を通して、
彼の文章に表れる気骨を味わっていただけでした。

しかしこのとき、
私はその文章の向こう側にいる、
生身の一人の普通の人間を目にしました。

当時、私は文学が好きで、
ときどき短い詩や文章を書いていましたが、
その筆致は未熟で、
とても人前に出せるようなものではありませんでした。

彼の詩は言葉が簡潔に研ぎ澄まされ、
深い余韻があり、
たびたび新聞や雑誌に掲載されていました。

私はよく原稿を持って彼のもとを訪れ、
教えを請いました。
彼も快く、辛抱強く添削し、
書き込みを加えてくれました。

こうして、私の心の奥にあった
「書くこと」への小さな火は、
少しずつ燃え始めました。

彼の姿から、私は言葉の力を知り、
ごく普通の人であっても、
よりよく向上したいという願いを
抱くことができるのだと学びました。

その後、私は大学に合格して進学し、
新余を離れました。
詩人の先生とは次第に疎遠になっていきましたが、
心から抱いていた尊敬の念は、
すでに私の胸の奥深くに根を下ろしていました。

大学卒業後、私は異動によって
組織部門で働くことになり、
そこでまた、地方の県城から
新余市文学芸術界連合会へ異動してきた随筆家、
李前先生と知り合いました。

先生の随筆は、
華やかな美辞麗句を決して並べ立てることなく、
郷土の日々の暮らしや、
人々のささやかな出来事の中から
深い意味を見いだすことに長けていました。

その筆運びはゆったりとして落ち着きがあり、
淡々とした語りの中に
思索が積み重ねられ、
文章の端々には、
文人ならではの繊細な観察と確かな筆力が満ちていました。

私は先生の文章を味わいながら読み、
とても好きになりました。

また、先生から指導や示唆を受けたこともあり、
私はますます随筆を好むようになりました。

そしてたびたび筆を取り、
自分が見たこと、考えたこと、
感じたことを書き留めるようになりました。

そのため、私も市の作家協会に加入し、
さらに多くの文学愛好者たちと知り合いました。

詩人の先生と随筆家の先生は、
どちらも私の人生に明かりを灯してくださった方です。

先生方に対するこの敬意は、
もはや遠くから仰ぎ見るだけのものではなく、
机に向かって筆を執り、
何度も文章を練り上げるための、
尽きることのない原動力となりました。

書くことへのこの情熱を胸に、
一日一日と積み重ねていくうちに、
ささやかな成果も得られるようになりました。

長年にわたって文章力を磨いてきたことにより、
仕事上のさまざまな任務も、
質の高い形で成し遂げられるようになりました。

文章を書く中で積み重ねてきたものは、
逆に私の仕事やキャリアの助けとなり、
職業人生において上司から評価され、
重要な部署へ異動し、昇進することもできました。

同時に、私の文章を評価してくださる読者も増え、
多くの方々から
「弟子にしてほしい」という手紙をいただきました。

その後の歳月の中で、私はさらに多くの、
仰ぎ見るに値する人々と出会いました。

そして、盲目的に追い従うことなく、
憧れというものを理性的に捉えることも、少しずつ学びました。

真の憧れとは、誰かを神の座に祭り上げ、
ひれ伏して崇めることではありません。

他人の中にある輝きを見つけ、
それを自分自身を映し出す光として、
自らを励まし、
前へ進んでいくことなのだと、次第に理解するようになりました。

人は一本の木のように生きるべきです。

空を覆い尽くすほど大きくなることを、
無理に求める必要はありません。

しかし、自分自身の根と枝葉を持ち、
風雨に耐え、
心の中に消えることのない希望を
守り続けなければなりません。

文章とともに歩んできた
長い歳月を振り返ると、それはまるで、
ゆっくりと流れ続ける一本の大河のようです。

物が乏しかったかつての時代、
あの詩人の先生は、その川岸に立ち、
私のために明かりを灯してくださった方でした。

その後、先生は病気で亡くなりました。

私はずいぶん後になってそのことを知りました。
知らせを聞いたその瞬間、
胸の奥は先生を思う痛みでいっぱいになり、
今もどうしても拭いきれない悔いが残りました。

灯火には、いつか消えるときが訪れます。
しかし、暗い夜を越えて進むために、
いつの時代にも松明を高く掲げる人がいます。

その光こそが、希望そのものなのです。

今の私は、ただそのかすかな光を受け継ぎ、
さらに次へと手渡しているにすぎません。

文章を書く中で壁にぶつかり、
進むべき道が見えなくなるたびに、
私はいつもあの先生を思い出します。

あの簡素な机と、
鉛筆が原稿用紙の上を走る
サラサラという音を思い出します。

先生が顔を上げ、
眼鏡のレンズの奥から
穏やかで真摯なまなざしを向け、
ゆっくりと私に
言い聞かせてくださったことを思い出します。

「書き続けなさい。止めてはいけません。
文章は生きています。
あなたが止まれば、文章も死んでしまいます」

この言葉は一本の鍵のように、
固く閉ざされていた私の心の扉を開き、
暗闇に包まれたときにも、
私の希望を守ってくれました。

それからというもの、
筆先がためらい、心が揺れるたびに、
私はこの言葉を自分に言い聞かせ、
書くことを止めてはいけないと戒めてきました。

たとえ文章力がまだ未熟でも、
たとえ誰にも認められなくても、簡単に諦めてはいけません。

私にとって書くことは、
呼吸をするのと同じように自然なことです。

ひとたび書くことを止めれば、
心は息が詰まるように苦しくなります。

私は少しずつ、
書くことは人に見せるためのパフォーマンスではなく、
ひたすらインスピレーションが訪れるのを
待つものでもないと
理解するようになりました。

それは、一日一日と積み重ねていく修練なのです。

インスピレーションとは、
長い時間をかけて蓄積したものから、
偶然ほとばしる火花にすぎません。

それよりも多くの場合、
私たちは変わり映えのない日々に耐え、
ささやかな日常の中にかすかな光を探しながら、
心の奥にある希望を守り続けなければならないのです。

私にとって、誰かを崇拝することは、
その人のすべてをそのまま真似し、
すべてを受け入れることではありません。

私はただ、その人の中にある
輝く部分だけを受け取ります。

それは、本の中から
心を打たれた言葉を書き写すようなものであり、
大河や海から、
ひしゃく一杯の澄んだ水を汲み取るようなものです。

私が仰ぎ見る人たちは、
自ら光を放っています。

しかし、私はその人たちと同じように
生きる必要はありません。

ただその光を借りて、
自分が進む道を照らし、心の奥にある希望を照らせばよいのです。

私もかつては、あの人たちのような
「優れた才能を持ちたい」と願っていました。

しかし長い歳月を経て、
才能は決して
何もないところから生まれるものではないと
分かりました。

何度も鍛錬を重ね、
一日一日と磨き、積み上げてきた結果なのです。

たとえば、息子のピアノの先生についても、
私はその優れた音楽的才能を
心から尊敬していますが、
自分も先生のようになりたいと考えたことは一度もありません。

一人ひとりに、その人だけの人生の軌跡があります。

私がすべきことは、芸術に対する
真摯でひたむきな初心をそこから汲み取り、
自分自身の道へと戻り、
希望を胸に、揺るぎない気持ちで前へ進むことです。

それは、詩人の先生が
私に教えてくださったことと同じです。

「光は、ただ仰ぎ見るためだけにあるのではありません。
進む道を照らすためにもあるのです」

誰かを崇拝する気持ちが生まれるのは、
その人が持つ貴重な才能や人柄に憧れ、
自分もまた、そのような力を持ちたいと願うからです。

私は、一生を費やしたとしても、
おそらくその人たちがたどり着いた
高みには届かないだろうと、よく分かっています。

しかし、光に向かって駆けていく
その過程そのものが、
人を少しずつ変化させ、成長させてくれるのです。

それは、光を追いながら
道を急ぐ人のようなものです。

太陽に追いつくことはできないかもしれません。
しかし、走っているそのとき、
すでにその身は光に包まれています。

そうして心の中には、
希望がいつまでも残り続けるのです。

多くの場合、私が崇拝しているのは、
必ずしも特定の誰かではなく、
ある一つの生き方です。

それは、一つのことに集中し、
揺るぎない心で、すべてを注ぎ込み、
日々の暮らしの中に
詩情を生み出す生き方です。

たとえ特定の人物を前にしたとしても、
私はその人の才能を評価しながら、
その人の振る舞いや性格のすべてに
同意するとは限りません。

中には、賛同できない部分さえあります。

しかし、それによって、
その人から自分の成長の糧を得ることが
妨げられるわけではありません。

それは、「木になった甘い果実を味わいたい」からといって、
鋭い棘まで一緒に受け取る必要はないのと同じです。

私が仰ぎ見てきたのは、
初めから完璧で欠点のない人ではありません。

ある瞬間、私に光を投げかけてくれた魂なのです。

その光は、さまざまなところからやって来ます。

一度も会ったことのない
見知らぬ人から届くこともあれば、
ある文章、ある一曲の音楽、
ある一枚の絵から届くこともあります。

その光が心の奥に差し込むと、
やがて自分の内側に溶け込み、
命の一部となって、消えることのない希望になります。

私は無理に
光を放つ存在になろうとは思いません。

ただ一枚の鏡となり、
受け取った光を、
さらに遠くまで反射させたいと願っています。

ですから、崇拝の本質とは、
何を受け取り、何を受け取らないかを
選びながら見つめることです。

心をたたく光を見つけ、
それを前へ進むための導きに変え、
心の奥にある
消えることのない希望を守ることなのです。

一人の人間のすべてを
受け入れる必要はありません。

魂を育んでくれる部分だけを
受け取ればよいのです。

崇拝とは、他人の中にある
「輝きを選び取ること」なのだと
理解したからこそ、
私は自分自身の不完全さも、
穏やかな気持ちで
受け入れられるようになりました。

本当の意味での完全さとは、
人生に一つもひびがないことではありません。

そのひびを通って、
光が心の中へ差し込むことを
受け入れることなのです。

崇拝とは、誰かをそのまま写し取り、
真似ることではありません。

自分自身を目覚めさせることです。

心の奥で眠っている
勇気と力を呼び覚まし、
深く秘められた希望を
目覚めさせることなのです。

私たちは、誰かを仰ぎ慕ったからといって、
その人と同じ姿になるわけではありません。

しかし、光を追いかける過程が、
私たちの背中を押し、
絶えず変化し、
成長していく力を与えてくれます。

生まれながらに持つ
欠点や限界を受け入れながら、
それでもなお、
よりよい自分を目指して進んでいくこと。

それこそが、
崇拝が、ごく普通の人々に贈ってくれる、
「最も尊い贈り物」なのです。

毛沢東同志に対して、
私は心から深い敬意を抱いています。

彼は偉大な革命家であり、
中国を深刻な苦難から抜け出させ、
新しい国家を築き上げました。

しかし、私の心を最も強く打つのは、
やはり彼の筆から生まれた、
雄大な文学の力です。

彼の詩には、
山河をも呑み込むような気迫があります。

筆を執れば、山河や太陽と月、
激動の歳月のすべてが、
その筆先へと押し寄せます。

そこには、天地を自由に駆け巡るような
壮大な視野があると同時に、
祖国への熱い思いも秘められています。

戦乱の時代にあって、
悠久の歴史を見渡すような
豪胆さを詠い上げながら、
心の奥にある理想と真心も表現しています。

その文章には、
雷が一斉にとどろくような
圧倒的な気迫がある一方で、
真摯で人の心を動かす感情もあります。

読むたびに、
文字の中からほとばしる
強大なエネルギーを感じます。

胸を揺さぶられ、
読み終えたあとにも長く余韻が残ります。

私が彼を崇敬するのは、
彼をまったく欠点のない「聖人」とみなしているからではありません。

彼が心の中に一般の人々を置き、
生涯をかけて、人民の幸福のために尽くしたことを
敬服しているのです。

私にとっては、
それ以上に、彼の文章が持つ
「独自の精神的な力」に
深く引きつけられています。

一篇一篇の詩や文章から、
その胸の広さと大きな視野を感じ取り、
精神的な面で彼に近づこうとしているのです。

ごく普通の人間は、
世の中を揺るがすような
偉業を成し遂げることはできないかもしれません。

しかし、文章から自分を育むものを受け取り、
心の中の信念を守りながら、
地に足をつけて
自分の道を歩んでいくことはできます。

彼の作品を繰り返し味わいながら読むと、
そこに込められた力に深く心を動かされることがよくあります。

そして、広い心を持つとはどういうことか、
信念を貫くとはどういうことかを
理解するようになります。

真の崇敬とは、
文章から受け取ったこの力を、
自分自身の一歩一歩に反映させることなのです。

こうした思いを筆に託して書きながら、
私ははっきりと感じています。

あらゆる方向から届いた光は、
すでに私の心の奥に根を下ろし、
芽を出しています。

そして希望は、絶えることなく生まれ続けています。

私はもう、自分が完全ではないことを恐れません。

成長の本当の意味とは、
決して他人の人生をそのまま再現することではありません。

外から届く光を借りて、
自分自身の道をしっかりと歩むことなのです。

私は今も星空を仰ぎ見ています。

しかし同時に、身をかがめて
地道に耕すことの大切さを、
以前よりもよく理解しています。

最も深い敬意は、
口にする称賛の言葉にあるのではなく、
地に足をつけて続けていくことにあります。

私は、かすかな光の下にある、
ごく平凡な一粒の塵であってもかまいません。

自分にしかない、
わずかな光を静かに放ち、
希望を胸に、
自分に与えられた天地の中で、
私だけの花を咲かせたいのです。

崇拝とは、
他人をそのまま写し取ることではなく、
自分自身を目覚めさせることです。

光を追って歩み、
希望を胸に抱き、
不完全な自分を受け入れながら、
それでもなお、
よりよい自分を目指して揺るぎなく進んでいくことなのです。

原文サイトはこちら

※原文サイトの一番最後に、今回の内容をほうふつとさせる「アニメーション」映像があります。
ウイチャットブログに飛ぶのが問題ない方は 試聴してみてください😅

今日は 私のうんちくは書かずに終わります(;^ω^) 
ここまでご覧くださりありがとうございましたww

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