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チャンジャーハン、朗読VTR「幸福のデザイン①」公開(映像版「グッドナイトストーリー」)

最近、映像版で公開されるようになった、ハンハンの朗読企画「グッドナイトストーリー」。
昨晩、最新の映像が公開されました♡

目次

チャンジャーハン公式Youtube発「幸運のデザイン①」朗読映像公開

今回公開されたのは、史鉄生著『幸運のデザイン』。
ハンハンが朗読する内容は、いつも「人生について考察」する書籍が多いのだけど…
今回も、そういう内容のエッセイでした。

チャンジャーハン朗読VTR「幸運のデザイン①」動画&全和訳

※以下、ハンハンが今回朗読した内容の和訳です※

 『幸運のデザイン』史鉄生

もし今世に
あまりにも多くの心残りがあるのなら、
不運のただ中にいるとき、

あるいは特に、不運を経験したあとで
気持ちが少しずつ落ち着いたり、
何も感じなくなったりしたとき、

一人で静かに過ごし、
たばこを一本吸いながら、来世のことを考えてみるのもいい。

思うままに、自分の来世を思い描いてみてもいい。
いや、来世を「設計」してみてもいい。

一度試してみるといい。

少なくとも私には、不運なときには
それが一服の良薬になると思う。

まず心を落ち着かせ、
そのあとで再び前を向く力を与えてくれる。

それは、負け続けてきた賭博師が
何度もの敗北を忘れ去り、
身ぐるみはがされてもなお、
次の勝負に胸を躍らせ

「今度こそ勝てる」と信じているようなものだ。

それの何が悪いというのだろう。
悪いことなど何もないではないか。

迷信だと言われるだけだろう。
それなら、一度くらい迷信を信じてみたっていい。

科学的ではないと言われるだけだろう。
それでも構わない。

そもそも、幸運や不運という現実に対して、
科学はもともと無力なのだから。

空想だ、自分をごまかしているだけだ、
夢を見ているだけで役に立たない
――そう言われるだけだろう。

では、「希望」は役に立つのだろうか。

希望というものは、
それが実現できると証明されて初めて
「希望」と呼べるものなのだろうか。

もちろん、こんなことは
ほとんどくだらない理屈にすぎない。

不運の最中にいるとき、
こんな理屈をあれこれ考える余裕など
あるはずもない。

そんなときはただ
「幸運だったらどんなにいいだろう」
「幸運になれたらどんなにいいだろう」と思うだけだ。

では、どれほど素晴らしいものなのだろう。

考えてみよう。
考えたところで損はない。

だったら、考えてみない理由があるだろうか。
私はよくそんなふうに考える。

そして、そんなばかげたことに、
ずいぶん多くの時間を費やしてきたのだ。

私は思う。

もし来世があるのなら、
まず生まれながらにして備わる
いくつかの恵まれた条件を手に入れたい。

頭の良さ、美しい容姿、そして健康な身体。

運命というものは、最初から公平ではない。

人は生まれた瞬間から、
幸運な者と不運な者に分かれている。

たとえば、生まれつき頭の悪い人がいる。
生まれながらにそうなのだ。

それを本人のせいにできるだろうか。

しかし、そのことから生じるあらゆる結果は、
すべて本人が背負わなければならない。

兄弟姉妹の中で、
親から一番かわいがられない子になるかもしれない。

先生に叱られ、
同級生に笑われることもあるかもしれない。

そうしてますます劣等感を抱き、
打ちひしがれ、
軽蔑され続けながら、

最後まで「いったい誰を責めればいいのか」
もわからないままなのだ。

また、例えば、
生まれつき容姿に恵まれない人がいる。

かなり不細工で、
どれほど美容に努力してもどうにもならない。

それは、その人の過ちなのだろうか。

罪なのだろうか。

違う。

そう、違う。

では、なぜその人だけが
女性に好かれにくい思いをしなければならないのだろう。

そのために結婚はひどく難しくなる。

もし美しい女性が彼を愛したとしても、
周囲は驚き、不思議がる。

ようやく子どもが生まれても、
他人はもちろん、本人でさえ
「どうか自分に似ませんように」と願ってしまう。

なぜ彼だけが、
そんな運命を背負わなければならないのだろう。

なぜ人から笑われ、
思わず苦笑してしまうようなあだ名を付けられたり、
あるいは同情されたり、
善意の人たちから必要以上に
気を遣われたりしなければならないのだろう。

身体についても同じだ。

生まれつき肩幅が広く脚が長く、
颯爽としてハンサムな人もいる。

(あるいは、しなやかで美しく、
女性らしい魅力にあふれた人もいる)

生まれつき丈夫な骨格と恵まれた体を持ち、
走るのも速く、跳ぶのも高く、
力も持久力もあり、
精力にあふれ、病気もほとんどしない。

その一方で、生まれたときから
何をとっても人に及ばない人もいる。

身体については、私はなおさら身に染みてわかる。

例えば文章を書くときでも、
一日中書き続けても平気な人がいる。

しかし私は、三、四時間続けて書くだけで
目の前が真っ暗になってしまう。

例えば友人たちと郊外へ遊びに行くときもそうだ。

期待に胸を膨らませ、
あれこれ楽しいことを思い描きながら目的地へ着く。

みんなの気分は最高潮で、
興もまさに盛り上がっている。

それなのに私は、もう疲れ果てて、
みんなの楽しい雰囲気を壊すことしかできなくなってしまう。

だから私は、
来世にはどうしても健康な身体が欲しいと思う。

今世ではもう望まない。

ただ来世では、生まれ変わる先を慎重に選び、
カール・ルイスのように
健康で美しい体格と身体能力を持ち、

周恩来のように颯爽とした容姿と品格を備え、
アルベルト・アインシュタインのような
知性とひらめきを持つ頭脳を授かりたい。

夢なのだから、
せっかくなら完璧なものにしたっていい。

夢まで遠慮したり、
謙虚になったりする必要があるだろうか。

私は夢中になって、
そしてこの上なく自分勝手に、夢を描き続けることにした。

どこに生まれるかということも、実はとても重要なことだ。

二十年前、下放(※)されていた頃、
私は陝西省北部の辺鄙で閉ざされた農村で、
健康で容姿もよく、とりわけ並外れて聡明な若者を何人も見てきた。

🌟下放: 文化大革命期に都市部の若者が農村へ送られ、農作業に従事させられた政策。
史鉄生自身も陝西省北部の農村で暮らした経験があり、この場面はその実体験をもとに書かれています。
※張ママも、最近「下放」の経験談をブログで書いたことがあります

そのたびに私は思った。

もし彼らが、もっと恵まれた土地に生まれていたなら、
きっと大きなことを成し遂げていただろう。

どんな道に進んだとしても、
きっと並外れた成果を残したに違いない、と。

しかし、あの貧しくへんぴな土地では、
お腹いっぱい食べられることさえ立派な成果だった。

文化や学問にまで
思いを巡らせる余裕など、あるはずがない。

だから彼らには学校へ通う機会もなく、
本を読むこともできなかった。

新聞もテレビもなく、
映画さえめったに見ることができない。

外の世界がどんなものなのか、
まったく知ることなく、
ただ先祖代々の生き方をなぞるしかなかった。

日の出とともに働き、日が沈めば休み、
春には種をまき、秋には収穫し、
夏は忙しく、冬はひと息つく。

そんな毎日を、一年また一年と繰り返していく。

時はいつもと変わらず流れ、
やがて彼らは成長し、結婚して家庭を築く。

そして、その才能は少しずつ使い尽くされ、
夢を持たない素朴な男たちになっていく。

さらに時が過ぎれば、
彼らもまた父親たちと同じように老いていく。

単調な歳月だけが、
彼らの身体に避けられない歳月の跡を刻んでいく。

しかし、「人はなぜ生きるのか」という問いは、
年老いた彼らの心に最後まで浮かぶことはない。

やがて彼らは、恐れ、祈り、
おびえながら、死のなすがままに身を委ねる。

そして、その土地が変わらない限り、
彼らの子どもたちもまた同じように育ち、
同じように老いていく。

夢はすり減り、
同じ人生を世代から世代へと繰り返していくのだ。

あるいは、それが幸せなのだろうか。

あるいは、私より夢が少ないからこそ、
苦しみも少ないのだろうか。

彼らも、
自分の来世を思い描いたことがあるのだろうか。

夢を持たない、
あるいは夢があまりにもささやかな彼らは、
いったいどんな来世を思い描くのだろう。

私にはわからない。

わからない。

ただ一つ願うのは、

私の来世だけは、彼らのような人生ではありませんように。

どうか、そうだけはなりませんように。

では、どこに生まれるのがいいのだろう。

大都市に生まれればいいのだろうか。

名門の家に生まれれば、
それだけで幸せなのだろうか。

父親が優れた業績を残した大統領であるとか、
莫大な財産を持つ大富豪であるとか、
あるいは名声を博した学者であるとか。

あるいは、両親ともに並外れた人物だったとしよう。

幼い頃から、たっぷりと愛され、
人々にもてはやされる環境で育つ。

色彩豊かで、
次々と面白い出来事に出会える環境で育つ。

目の前には何の心配もない現実が広がり、
輝かしい未来が約束され、
あらゆる機会に恵まれ、人生は順風満帆――。

だが、それで本当にいいのだろうか。

一般的に言えば、そんな境遇もまた、
一つの「障害」であり、一つの「牢獄」なのだ。

そうした環境からは、愚かな人間が生まれやすい。

愚かにならずに育つ確率は低く、
本当に何かを成し遂げる人の割合も決して高くない。

しかも、しっかりした考えを持つ女性ほど、
そんな人とは結婚したがらないものだ。

もちろん、その中には並外れた才能を持つ天才もいる。

大きな功績を残した人物もいる。

真理を悟ったような人物もいる。

しかし、それはあくまでごく少数にすぎない。

そう考えると、これもかなり危険だ。

来世では、
この点はくれぐれも慎重に選ばなければならない。

決して油断してはならない。

今世だけでも波乱万丈だったのに、
来世まで愚かな人間になるのは、とても耐えられない。

片田舎に生まれれば、
見聞が狭くなる恐れがある。

それでは困る。

かといって、名門の家に生まれれば、
驕り高ぶり、思い上がった人間になる危険がある。

それもよくない。

では、その両極端の
ちょうど中間のような場所に生まれるのはどうだろう。

うん、それは悪くないかもしれない。

人類の文明がどれほど豊かで輝かしいものかを知りながら、

同時に、人生という道のりが
どれほど険しく困難なものかも知っている。

そんな場所ならどうだろう。

うん、悪くない。

権力者や富裕層の、
華やかでありながら常に不安を抱える暮らしも知っている。

一方で、ごく普通の人々の、
貧しくとも人情あふれる歳月も知っている。

そんな立場ならどうだろう。

うん、いい。実にいい。

本をたくさん読み、
学問の場でさらに学ぶ機会にも恵まれる。

その一方で、世の中を一人で渡り歩き、
苦労しながら生き抜いた経験もある。

人生の大事な場面では、
良き師に導かれ、
まるで神の助けを得たかのような幸運にも巡り合う。

しかし、日々のことは何もかも
自分自身の努力で切り開かなければならず、
決して順風満帆に出世できるわけではない。

人の愛情や友情のすばらしさを十分に味わいながら、

同時に、人の世の冷たさや世知辛さも、
それが世の常なのだと知っている。

だからこそ、ロマン・ロランの言うように、

「この世界を見きわめたうえで、それでもなお世界を愛する」

そんな立場ならどうだろう。

いい。

本当に悪くない。

いいことづくめではある。

しかし、そんな場所はいったいどこにあるのだろう。

来世にある。

生まれ変わったその人生にある。

良いものなのだから、自分で設計すればいい。

慌てることなく、
じっくりと、細かく設計してみようではないか。

そうしない理由は、私には見当たらない。

落胆することはない。

気を落とすこともない。

本当か嘘かなどという話は、夢や希望の領域には属さない。

だからこそ、思うままに一度くらい――

幸運のデザイン」をしてみようではないか。

君は、ごく普通の知識人の家庭に生まれるのがいちばんいい。

終わり

これまでも 何度か出てきたことがある「史鉄生」
(ハンハンは この作者が好きなのだけど思うww)

今回、ハンハンが読んだ「幸運のデザイン」は原文が 超~長いので…
この後、2回くらいは この本の続きの朗読が出る予感です。

今日和訳したのは、まさに冒頭部分… この後、この本の真のテーマが出てくるはず…。
全部で揃ったら、奥底に描かれてた話を 考察してみたいと思います😅

番外編:記録せずにいられない、悲しすぎる🐶ちゃん事件の話

ここからは ハンハンとは全然関係ない話です。

実はこの話を知ったのは、たった数日前。
FBで流れてきた投稿を目にしてからでした。

あまりにも ひどい事件で、これはどういうことなのか、調べずにいられませんでした。

その結果から言うと、数日たった今も、胸が苦しくなるくらい…
本当に「ひどすぎる」動物虐待事件
でした😢。

ひとことでいうと、いわゆる「超 胸クソ案件」です。(;´д`)トホホ

怒り、悲しみ、憤り、いろいろな負の感情がわいてきます。
正直、知らない方が幸せかもしれません。

でも、ハンハンの国で起こった、この事件。
このひどすぎる案件に声をあげた人たちが、
あの国で今まさに「投稿禁止(口封じ)」されていること。

それでも 声を上げる人たちが減らないこと。(声を上げずにいられない)
その輪が、世界中に広がっていること。

まるで あの「813事件」のときに見た光景が 再現されているかのようでした。

もちろん、813とは、内容は全然違うのだけれど…
このような口封じで、
悪しき事件を改善するどころか、なかったことにする様子は
あれから5年たった今も 何も変わっていないことを露呈させる
ばかりでした。

この事件。あまりに「胸糞」で、
この2日間、ここに書くかどうか 悩んだのだけど…

いまでも、あの国が「なかったことにするチカラが どれだけ強いか」を
改めて知る事件でもある と思いました。

そういうわけで、簡単に、何があったのかを 紹介します。

※ただ、今から続ける話は くどいですが、本当に「怒り」にふるえる案件です。
知らなかった方が良かった という方も出るでしょう。
とくに ワンちゃん好きな方は 間違いなく胸苦しくなる話です。
ここから先に進むかどうかは、ご自身の判断で ご注意くださいますよう よろしくお願いします。

※各種SNSでは、動画も視聴できますが、ここではあまりにショッキングなので 文字だけで紹介します※

先月6月22日、あの国のある街で実際に起きたこと

以下は 通称「わんわん事件」をGoogleAIが要約した内容です。

※約1時間にも及んだ加害行為の、要所要所が動画でアップロードされました。
最初にアップロードしたのは 犯人です。あまりに凄惨な動画に、ショックを受ける人が続出しました。

このひどすぎる「虐待」の様子を、犯人自らSNSに投稿したことで
広く知られるようになり、本土内の各地で「怒りの声」が上がりました。

そして その声はいま 本土内では「投稿すると即削除」「ビラ配りをすると即拘束」
「店にポスターを張った店舗には、警察官が何度もきて、撤去させる」状況が続いています。

さっきWeiboで検索してみた:
完全に表示されなくなった。国内の封鎖の強さは前代未聞だ

投稿元リンク先はこちら

↑5年前にも見た光景が 規模を大きくして いま、現在進行形でおこっています。

この状況を受けて、統制外のSNS(いわゆる、Xやインスタ、フェイスブックなど)で、
海外の心ある人々が、声を上げ続けています。

日本のXでも、1か月たった今も トレンド入り。
この悲惨すぎるワンちゃんのために 声をあげている方も少なくありません。

Xで、モザイクをかけた、その動画を私は見てしまったんですが…😢
もう本当に ひどいものでした… 
この2日間、ずっと、脳裏に焼き付いて離れません(´;ω;`)ウッ

なぜ あの子は こんな目にあわなければならなかったのか?
なぜ こんなことを平気でできる人間がいるのだろうか?

この話の続報は、XやFBでたくさん 知ることができます。


いま、NYタイムズスクエアに、動物虐待禁止を訴えるデジタル広告が流れたり、
香港、日本、ソウル、そのほかの各都市で、街頭でチラシを配布している方もいます
日本、そして世界中で 声をあげている人が増えています。

あの国には、動物愛護法がない 

いまや世界2位の経済大国にもかかわらず、言論の自由がないのはよく知られているとおりです。
しかしながら いまや先進国を自負する国が どうして「動物」を法律で守れないのでしょうか?

たとえ、食習慣で、犬を食べる風習があるからだとしても、
今回の残虐行為は、食べるためではありませんでした。
明らかに、なぶり、いたぶることを 目的とした 猟奇的虐待でした。

これを、法律で禁止し、このような残虐行為をやめさせてほしい。
そう願う人の口を どうして封じるのでしょうか?

どんどんエスカレートする「アカウント禁止」を見るにつけ、
もはや 正義の実現など どうでもよくて そこにあるのは「体制の維持」としか思えません。

民衆の口を封じるのは、市民の抗議で何かを変えたくない=成功事例を作りたくない 

なぜ あの国は 市民の声を徹底的に封殺するのでしょうか?
動物を愛護する。どこに問題があるのでしょうか?

これを封殺したい理由は ただひとつ。
市民が声を上げた、抗議したことで、何かを是正したくない のです。


もし、これで「動物愛護法」ができたら、
ほかの事例でも、もっと、抗議をあきらめない人が出てくるでしょう。
「成功例」を作ると、ほかに飛び火するのです。

(極端な話をすると、1989年6月4日に起きたこと。
あれの 再現を封じるためなら なんでもするでしょう)

でも ワンちゃんをなぶり殺すのは、法律違反にならない限り…
あの少年たちが 犬猫を殺し続けるのを やめさせる手だてがありません。

この残虐行為を野放しにすることのほうを「よし」とするのが いまの〇国なのです。
本当に残念です。

※ハンハンと関係ない話をたくさん 書いて恐縮です。
この最後の私見に関する部分は、明日の朝、削除するつもりです。
今日見ていただけた方の、頭のかたすみにでも この状況が伝わると幸いです。

ここまでご覧くださりありがとうございましたww

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