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張哲瀚公式インスタ更新「テニス大会出場時の試合記録」VTRを初公開!(ママブログ更新の和訳も)

今日は久しぶりに、ハンハンのインスタ更新あり♬
昨年末に話題になってた、テニスの試合の映像が公開されました♡

今日は、ハンハンの投稿と、ママのブログを詳しくご紹介しますww

目次

チャンジャーハン公式インスタ更新!「テニス試合」映像公開

ではでは さっそく…なんですが、本題に行く前に、ハンハンが「アマチュアテニスの大会に出場した」話から。
(これを思い出すと、動画がわかりやすいと思います(^-^;)

※昨年末(12/30)、ハンハンとテニス大会で「決勝」の試合をした!という方が、投稿を出したことあり。
そのときの話が>> チャンジャーハンとテニスの試合をした方の「貴重な投稿」 

映像の中に、この方も登場します^^
ハンハンの動画 ぜひ見てみてください (〃▽〃)ポッ

チャンジャーハン公式インスタ1/22投稿「2.5 試合記録 」

投稿コメント 2.5 試合記録 🎾

※動画はハンハンのインスタで>> 投稿元リンク先はこちら

ちなみに「2.5試合記録」は、「2.5レベル帯の試合記録」
= 初中級クラスの大会 or マッチ結果 という意味です。

中国のアマチュア大会(天天有网球 系のリーグ)では、 実力ランク制
だいたいこういう区分とのこと

2.0=初心者
2.5=初級〜初中級
3.0=中級
3.5=中上級
4.0以上=上級者

つまり ハンハンは、このクラスで「準優勝」。(半年足らずですごいww)

※動画で、決勝の試合の様子が出てくるので、ぜひ見てみてください。
字幕があるのだけど 全文和訳するのが難しい(時間が相当かかるので今日はムリでした(^-^;)ので。
タイトルと 途中でてきた 気になる文字だけ 以下和訳。

“网球比赛日 Day1”
→ 「テニス試合日 Day1」

(下の小さい字幕)我都不紧张
→ 「全然緊張してないよ」

試合ルール
抽選で2人1組を決め、それぞれ40分間試合を行い、勝ち上がりを争う
勝者は勝者グループへ、敗者は敗者グループへ進む
勝者グループと敗者グループはそれぞれ2人ずつ再び抽選して対戦
最終的に優勝者が決まるまで行う

ということで 以上 今日のインスタ投稿でした💗

張ママがブログ更新!「千年を越えて、再び東坡に出会う」

そして ここからは ハンハンママのブログ内容を。

実は1月12日に更新されてたブログなのだけど… すっかり紹介するのが遅くなってしまいました(^-^;

内容は、ハンハン&ママ両方からよく話が出てくる、「蘇東坡」に関する話が出てきます。

蘇東坡:宋代を代表する文人。左遷という逆境に幾度も置かれながら、その試練を生の深みへと昇華し「人はこう生きられる」と示した宋代随一の文人。
👍才能ゆえに左遷され、何度も人生の逆境を味わったが、その苦しみさえも受け入れ、前向きでおおらかな生き方へと変えていった人物。
※人生で何度も左遷=逆境にあう部分が、あの事件で封殺されて今に至るハンハンの境遇とオーバーラップします。詳しい話はウイキにでているので余力のある方はこちらで>>ウイキペディアリンク先はこちら

ママのブログ1/12更新「跨越千年,再见东坡(千年を越えて、再び東坡に出会う)」全文和訳

海南へ向かうことを思い立ったのは、ある友人の存在がきっかけでした。

昨年の年末、彼女のご主人が病で他界され、これまでいつも微笑みをたたえていた眉や眼差しには、解けることのない陰りが覆いかぶさるようになりました。

身体は次第に痩せ細り、歩みさえも重く沈んだ寂しさをまとっているようで、その沈黙の奥に隠された深い哀しみは、見る者の胸を締めつけるほどでした。私たちは若き日より知り合い、共に風雨を乗り越えてきた友人同士であり、その情誼(長年育まれてきた絆)は、すでに歳月の流れの中に深く染み込み、言葉を交わさずとも互いの心の痛みを理解できる関係です。

私は以前から、静かで落ち着いた場所へ彼女を連れ出し、心を少しでも解きほぐしてあげたいと考えていました。しかし、それを率直に口にすれば、かえって彼女の傷に触れてしまうのではないかとためらい、長く思案を重ねました。

そして、海南の広大な山海の景色が心の塵を洗い流してくれること、さらに儋州において、東坡先生が三年間流謫の地で過ごした千年の文化の流れが、人に力を与えてくれることを思い、この地こそ最もふさわしい場所だと感じたのです。

そこで私は、「以前から海南に行きたいと思っており、東坡ゆかりの地を訪ねたい」とだけ伝えました。
しかし胸の内には、彼女と共にこの山海と文脈の旅に赴き、そっと心の傷のしわをなだめたいという願いを秘めていました。

その話を聞いた友人たちは、すぐに快く応じてくれました。

その爽やかな即答の裏には、揺るぎない信頼と、友への深い思いやりが込められていました。

荷物を整え、山海を越えて旅立つ際には日付を意識していませんでしたが、儋州に到着してみると、それが偶然にも1月8日であることに気づきました。

東坡先生は北宋・景祐三年十二月十九日にお生まれになりました。
西暦では1037年1月8日にあたります。

2026年のこの日は、ちょうど989周年の生誕記念日でした。
このような思いがけない巡り合わせにより、この足跡をたどる旅は、運命に導かれたかのような厳かな意味と敬意を帯びることとなったのです。

若き日に出会い、晩年に至るまで寄り添い合い、親しい友と共に歩む温もりは、山河を証とし、文化の系譜を絆として、並んで歩いた一歩一歩の中に静かに、しかし確かに刻まれています。

それは歳月の冷たさにも抗い得る、揺るぎない力となるのです。

海口・海を望む:海風が眉間の霜を払い去る

海口に到着してひと息つき、身支度を整えると、私たちは真っ先に長く続く海岸へと向かいました。

午後の海風は、やわらかな水の気配を含みながら、頬をそっとなで、旅の疲れを一瞬で洗い流してくれました。澄み切った海は空と溶け合うようにつながり、どこまでも純粋で広大な青を湛えています。

波が岸に打ち寄せる音が絶え間なく響き、細かな波しぶきが足元を濡らし、ほのかな塩の香りとともに、胸の奥まで爽やかさが沁み渡りました。遠くの船は水平線に影のように浮かび、海鳥は翼を広げて空をかすめていきます。

風の音、波の音、鳥の声が重なり合い、まるでこの世でもっとも「癒やし」に満ちた旋律のようでした。

私たちは海辺の店が用意したビーチチェアに腰掛け、ココナッツウォーターを飲みながら、他愛ない話に花を咲かせました。話が弾むと自然と笑い声がこぼれ、久しく忘れていた軽やかさが、会話の間を流れていきました。

やがて手を取り合い、柔らかな砂浜をゆっくりと歩きながら、海風に吹かれ、夕日が次第に空を赤く染め、残照が海面に広がってきらめく光景を静かに眺めました。

その輝きは胸を打つほど美しいものでした。

この広大な海景を前にすると、夜ごと胸を詰まらせた涙や、触れることを恐れていた過去の記憶が、海風の中で細かくほどけ、少しずつ溶けていくように感じられました。友人の眉間に宿っていた曇りも次第に和らぎ、瞳の奥には、久しく失われていた温もりが再び揺らぎ始めました。

空の青、海の青、そして重ね合った掌のぬくもりは、歳月が沈殿させた深い友情そのものでした。痛みは決して完全に消えるものではありませんが、海風は心を慰め、友情は寄り添い支え、世界はなお愛するに値する――そのことを、あらためて実感しました。

こうして一日を海岸で過ごし、山と海の間でひとときの安らぎを得た私たちは、いよいよ儋州へと向かいました。先生の生誕の日に、気骨と知恵を宿した東坡の足跡を訪ねるため、最初の目的地として東坡書院へ向かったのです。

■東坡書院:文脈の深奥に気骨を見る

東坡書院は、儋州の中和鎮に位置しています。

もとは北宋・紹聖五年(1098年)に、東坡先生が講学し、友と集った「載酒堂」を前身とし、後の時代に幾度も修繕と改称を経て、現在は国家重点文物保護単位となっています。書院は中軸線に沿って整然と配置され、正門から入ると、載酒亭、載酒堂、東坡祠が順に並び、素朴で端正な佇まいを見せています。

院内には古木が天を覆い、青瓦には薄く苔が乗り、あらゆる景色の中に、歳月が蓄えた穏やかな風合いが宿っていました。中心建築である載酒堂は、かつて先生が友人と酒を温め、道を論じ、詩を吟じ、文を綴った場所であり、同時に南の地に中原文化の火種をまいた重要な拠点でもあります。

堂内の四方の壁には、歴代の碑刻や題詠が掲げられ、その筆致に込められた才情と敬意が、千年にわたる文化の継承を静かに語りかけてきます。ちょうど先生の989周年の生誕の日にあたり、私たちはゆっくりと院内を歩きました。

木々の隙間から差し込む陽光が青石の石畳に細かな金色の斑を落とし、静謐な空気にさらに厳かな趣を添えていました。生誕の日と足跡を訪ねる旅が重なったこの特別な巡り合わせは、載酒堂の前に立つ私たちの胸に、自然と敬虔な思いを呼び起こしました。

ふと目を閉じると、先生が窓辺に座り、友と杯を交わしながら古今を語る姿が浮かぶようであり、また灯の下で筆を走らせ、海島の清風と人間の営み、そして自身の心境を一筆一筆に凝縮し、千年に伝わる詞句へと昇華させる姿さえ思い描けるようでした。私たちは互いに顔を見合わせ、若き日に詩文を共に味わった頃のように微笑み合いました。

この千年を越えた特別な出会いは、文化の源流をたどる旅に、いっそうの敬意と温もりを添えてくれたのです。

■絶境にあっても折れぬ精神

遠く北宋の時代、海南はまだ「天涯の果て」とも呼ばれる荒涼の地で、人々からは「人の住む場所ではない」とさえ見なされていました。六十二歳の蘇軾は、烏台詩案の苦難を経て、この地へと流されました。

赴くにあたり「まずは棺を作り、次に墓を用意せよ」と覚悟を語ったほどで、その過酷な境遇は想像に難くありません。儋州に到着した当初、彼は肉も食べられず、薬もなく、住まいさえままならず、簡素な官舎すら身を寄せることができませんでした。

しかし、現地の黎族の人々の温かな助けを受け、檳榔林の下に草庵を結び、簡素な「桄榔庵」を建てて身を落ち着けました。これが、現在の東坡桄榔庵記念館の前身であり、先生が儋州で過ごした生活のもっとも生々しい痕跡を今に伝えています。

それほどの窮地にあっても、先生は決して運命に打ちひしがれることはありませんでした。

むしろ心を静め、自ら鍬を取り田を耕し、苗を植え、糧を育て、自給自足の中に安定を見出しました。

食糧が乏しい時には、サツマイモを煮て玉糁羹を作り、牡蠣を調理して珍味とし、さらには幼い息子・蘇過に向かって
「この島の美味を外の人に話してはならない。北方の君子たちが聞きつけて、奪いに来るといけないから」と冗談交じりに語ったといいます。

この苦境の中にも楽しみを見いだす達観には、胸を打たれずにはいられません。

さらに特筆すべきは、先生が常に教化の志を抱き続け、桄榔庵の傍らで学びの場を開き、身分や出自を問わず子弟を受け入れたことです。

こうして中原の文化の系譜は、南の果ての地に根を下ろし、芽吹き、花を咲かせていきました。以前、私は「人は、こうして生きることもできる――『東坡』と出会って」という文章を書き、彼の豪放さと強靭さを記しました。

すると読者の方がコメント欄で、「蘇東坡は、転んだ場所でそのまま満腹になる人だ」と冗談交じりに書いてくださいました。

この言葉はユーモラスでありながら的確で、わずかな言葉の中に、絶境にあっても嘆きに沈まず、己と和解しながら生き抜いた先生の人生の知恵が凝縮されています。たとえ谷底に落ちても、困難な日々を人間味あふれる暮らしへと変えていく――それこそが、東坡の生き方だったのです。

困窮した暮らしは、先生の才情や人生への愛を少しも削ぐことはなく、むしろ平凡な日々を詩情へと昇華させていきました。先生の筆に描かれた海南の風物は、生き生きとした生命感に満ちています。

立春の頃、柳の綿毛が舞い上がる光景を前にしては「天涯の地とは思えぬほど、舞い上がる柳の花はまるで雪のようだ」と詠み、そこには流謫の悲嘆は微塵もなく、ただ春光の澄明さと明るさだけが満ちています。

閑暇の折には黎族の人々とともに遊び、ほろ酔いの中で牛の糞を目印に帰り道を探しながら、「ただ牛の糞をたどって帰路を探す。わが家は牛小屋の西、さらにその西にある」と詠み、山野の中でのびやかに生きる安らぎと自在さがあふれています。

高所に登り、黎母山から流れ落ちる滝を眺めては、「飛泉は万丈の高さからほとばしり、舞う鶴は二羽そろって上下に舞う」と詠じ、南の荒野に広がる山水の奇絶さと壮麗さを余すことなく描き出しました。

また、当地の丹荔や黄柑を味わっては、「丹荔は玉の肌を裂くように瑞々しく、黄柑は芳香をあふれさせる」と詠み、その一語一語に、この地の風物の素朴な真実と甘やかな香りが込められています。

先生は自身の境遇に甘んじるだけでなく、常に民を思い、一方の地に恩恵をもたらしました。
当地には良質な墨がなかったため、松煙墨の製法を改良し、「海南松煤、東坡法墨」と称される墨を生み出し、地元の文人や学生たちに大きな助けを与えました。

また、人々が濁った水を飲んで病にかかりやすいことを知ると、自ら水脈を調べ、井戸を掘らせました。現在も「東坡井」からは清らかな水が湧き出し、代々の黎族の人々を潤し続けています。

さらに、この地の文教が荒廃していることを憂い、書院や桄榔庵で教えを広め、学問を授け、文化の種を蒔きました。その結果、荒涼の地には次第に読書の声が響くようになり、海南における尊文尚学の風潮が本格的に始まったのです。

千年の時を越えて東坡と出会い、しかも989周年の生誕日にあたったこの日、私たちは書院で先生の詩文や書画を丹念に鑑賞し、世に処する姿勢や学問への深い洞察に、思わず嘆息しました。

千年余りの歳月を経て、物質は豊かになり、科学技術は絶えず更新され、世界は大きく様変わりしました。しかし精神の次元においては、思想の深さ、文才の高さ、心境の厚みのいずれにおいても、東坡を真に超え得る者はほとんどいません。私たちにとって、先生はすでに、後人が容易に到達できぬ、ただ仰ぎ見るほかない精神の高峰となっているのです。

桄榔庵のもとにて:人間味あふれる絶境の中に初心を見る

東坡書院を後にした私たちは、まっすぐに東坡桄榔庵記念館へと向かいました。

先生がかつて住居を建て、耕作し、教えを授けた場所で、この千年越しの生誕の約束を果たそうとしたのです。
しかし道中にはいくつかの小さな行き違いもありました。

地元の人に道を尋ねた際、方言の違いから「桄榔庵」が音の似た別の字に書き取られてしまい、私たちはその誤った紙切れを手に、路地を行きつ戻りつ探し回ることになりました。道案内の方向感覚を冗談めかして責め合いながらも、そのやり取りの中には、長年連れ添ってきた友人同士ならではの暗黙の理解があり、この足跡を訪ねる旅に、かえって微笑ましい彩りを添えてくれました。

ようやく正しい道を見つけ、桄榔庵に到着したのは、ちょうど先生の生誕当日でした。
烈日の下、皆疲れ切り、空腹も覚えていましたが、この千年の約束へ向かう思いは、少しも衰えることがありませんでした。

その執念は、かつて南荒に流されながらも、絶境にあってなお光へ向かって歩み続けた先生の精神と、静かに呼応しているようでした。

桄榔庵記念館に足を踏み入れると、院内は静まり返り、草木は青々と茂っていました。東坡書院の穏やかさとは異なり、ここには先生の流謫の日々を思わせる、より重厚な空気が漂っています。

館内には先生の塑像はありません。
もっとも心を打つのは、大切に保存された草庵の基礎跡でした。

わずかな土の痕跡の中に、鍬を振るい、土を積み、家を築いた先生の姿が重なり、逆境に屈せず、光に向かって生き抜いた日々が静かに宿っているようでした。

私たちはその遺跡の前にゆっくりと立ち止まり、柵にそっと指先を触れながら、先生の生誕の日に、当時の暮らしの一つ一つを心の中で思い起こし、深い敬意を捧げました。
私は、東坡が海南へ流された経緯を映す大型スクリーンの前に立ち、その波瀾に満ちた人生を静かに聴き入り、千年を越えてなお伝わる気骨と力を感じていました。友人たちがこれまでの人生で経験してきた苦難や挫折から生まれた落胆や悲しみも、この東坡の精神との対話の中で、次第にほどけていったのです。

誰が想像できたでしょうか。
かつて朝廷に仕え、名声をほしいままにした文人が、天涯の果ての荒野で自ら耕し、家を建て、人を教え、運命の困窮を泰然とした生き方へと変え、歳月の風霜を詩の中の澄明な達観へと醸し出すとは。

儋州での隠居生活の中で、先生は「寂しくひとり病を抱える東坡の老翁、白髭は霜風に乱れる」と詠みました。
言葉には沧桑の色が漂いながらも、風雨を越えた後の淡然さがにじんでいます。

また、儋州で詠んだ『縦筆』三首では、自嘲を交えながら生涯の浮沈を語り、世事を見通した達観が行間に満ちています。

さらに北へ帰る海路にて、雲が晴れ月が明るく照る光景を前に、「九死に一生を得て南荒にあっても悔いはない。この旅こそ生涯でもっとも奇絶であった」と詠みました。この一句は、三年に及ぶ南荒の日々の総括であり、運命の浮き沈みへの和解であり、そして最も強靭な生命力の証でもあります。その重みある言葉は、千年を経てもなお人の心を震わせ、深く打ちます。

先生の生涯を振り返れば、栄枯盛衰と流転の連続でした。高き宮廷から遠き辺境へと落ち、幾多の嵐をくぐり抜けながらも、決して運命に打ち倒されることはなく、むしろ辺境の地で自らの光となって生き抜きました。

困窮を生き抜く知恵があり、土を耕し自給する静かな強さがあり、一方の地を潤す責任感があり、さらに詩を翼として精神の世界を自在に翔け巡りました。物質に乏しい中でも、人格は豊かに実り、気骨は高くそびえ立っていたのです。

千年近い時を経た今も、先生の文脈と精神はなお鮮やかに息づいています。三年の流謫を一壺の芳醇な老酒へと変え、荒れ果てた天涯の地を心安らぐ故郷へと変え、さらに筆と教化によって海南に千年尽きぬ文化の響きを残しました。この土地は、先生によって厚みを増し、光を添えられたのです。

帰路に悟る心:陽に向かって歩み、歳月に背かぬ生き方

私たちは記念館の中にしばらく静かに佇み、先生の989周年の生誕の日に、草庵の基礎跡を見つめながら、椰子の風にそっと頬をなでられ、思いを千年の時の流れに委ね、先生の精神と心の中で対話を交わしていました。立ち上がってその場を後にする頃には、すでに午後の陽は西へ傾き始め、暖かな日差しは暑さを和らげ、風にはいっそう柔らかな気配が宿っていました。

陽光は記念館の輪郭をやさしく包み込み、光と影は草木の間に広がり、歳月をも、人の心をも、静かに和らげているようでした。

千年という長い時の隔たりは、「一蓑煙雨 任平生(蓑一枚で風雨に打たれながらも、我が人生を生きる)」と詠んだ先生の生命力を隔てることも、詩詞に宿るおおらかな力を断ち切ることもできませんでした。

先生の生誕の日と重なったこの出会いは、歳月が私たちに贈ってくれた、何ものにも代えがたい贈り物であり、千年を越えた精神の共鳴に、より深く温かな結びつきを与えてくれました。
真に強い勇気とは、順境における勢いある前進ではなく、絶境にあっても慌てず動じぬこと、荒れ地の中に道を切り拓き、困難の中に光を見いだす、しなやかな強さと透き通る心であるのだと、あらためて知りました。

千年を越え、先生の生誕の日に東坡と再び出会って見えたものは、一代の文豪の気骨だけではなく、尽きることなく生き続け、陽に向かって育つ力そのものでした。その力は、友人の心の奥に刻まれたしわをやさしく伸ばし、内に秘めた痛みを癒やし、さらに私たちにこう語りかけていました。

人生の浮き沈みは常であり、風雨や困難は避けられぬものです。それでも谷底にあってなお、東坡のように、強靭な心を抱き、豁達な姿勢を保ち、天を恨まず人を責めず、自らを見失うことなく、困難の中に活路を見いだし、日常の煙火の中に喜びを探し、自分自身の輝きを生きるべきなのだと。

この人生において、最も幸せなことは、志を同じくする友と共に歩めることにほかなりません。

若き日の情熱から、年を重ねた確かな歩みへと至るまで、互いを知り、互いを思い、手を携えて進んできました。

この友情は、人数の多寡ではなく、心が通い合うことにこそ意味があります。東坡の文脈のように長く続き、山海のように重厚で、歳月の風霜から私たちを守り、そしてこの生誕の日に重なる特別な出会いへと導いてくれたのです。

この旅の道中、支え寄り添ってくれた友人たちに、心からの感謝を捧げます。道案内をしてくれた人、共に歩んでくれた人、心を込めて食卓を整えてくれた人――その一つ一つの善意が、この山海と文脈を巡る旅路を、深く潤してくれました。

とりわけ胸に染み入るのは、言葉にせずとも寄せられた思いやりです。私たちの行程を気にかけてくれた人、帰りを待って食事を用意してくれていた人。その細やかな温もりが、この文脈と生誕の日の約束に、いっそう人間味あふれるあたたかさを添えてくれました。

これからの歳月も、どうかこの時を越えた友情を大切に抱き、人の営みの灯りとともに、東坡のようにおおらかに、しなやかに歩んでいけますように。時の流れの中で温もりを積み重ね、寄り添い合う日々の中で安らぎを育み、この純粋な絆が、山河の彼方まで続き、歳月とともに伸びやかに流れ、年を重ねるごとに、互いを温かく包み続けますように。

※原文サイト=中国のウイチャットに、ママの動画があります
(1分30秒くらいの「この文章に出てきた友との旅行動画」です)
中国サイトに飛ぶのが問題ない方は 下のリンク先で見てみてください^^

原文サイトはこちら

いつにもまして すごい長文だったのだけど… (;^ω^)
ママらしい 素敵な話で 読後感が 超ほっこりでした。
ここまで 読了してくださった皆様 おつかれさまでした&ありがとうございました♡

文中に出てきた、前回のママブログは、過去投稿に和訳があります
>>張ママブログ12/30投稿「人は、このように生きることができる——私が「蘇東坡」と“出会ったとき”」(全文和訳)

ではでは今日はこのへんで。ここまでご覧くださりありがとうございましたww

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